見出し画像

#1 篠原古戦場の首洗池(石川県加賀市)

石川県加賀市にある首洗池を訪れた。1183年、篠原の戦いで討ち取られた斎藤別当実盛の首を洗ったと言われることから、名付けられたとのこと。

篠原古戦場の首洗池、その由来

篠原の戦いとは1183年、治承・寿永の乱(平氏政権に対する反乱)の一つ。挙兵した木曽義仲を討伐すべく集められた平氏軍は、倶利伽羅峠の戦いで大敗。篠原の地にて追撃する木曽義仲軍を迎え撃とうとするも、再び敗走。結果として木曽義仲はそのまま越前、近江を通過し入京、平家は西国落ちとなる契機の一つとなった合戦。

篠原の戦いで敗走する平氏軍の中で踏みとどまり戦ったのが、斎藤別当実盛という老将。奮戦虚しく木曽義仲側近の手塚太郎光盛に討ち取られる。ちなみに討ち取った手塚太郎光盛は、漫画家の手塚治虫の祖先かも、とも言われているようだ。

斎藤別当実盛とは

斎藤別当実盛は実は幼少時の義仲を信濃国に送り届けた命の恩人。

実盛は73歳という老齢の身を侮られぬよう白髪を黒く染めていると伝え聞いた樋口次郎兼光が、その首を池で洗っていると、黒髪はたちまち白髪に変わリ、木曽義仲はかつての恩人を打ち取ってしまったことを知り涙にむせんだと言う。

実盛の兜は、小松市の多太神社に所蔵されており、後年、松尾芭蕉が「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んだのも有名。

虫送りとサネモリ

斎藤別当実盛の死は、民俗行事にも影響を与えたようだ。初夏の田植えが終わった後に「虫送り」と呼ばれる害虫を村から追い出す行事があるが、その中でサネモリ様と言う藁人形が登場するケースがあるようだ。実盛は馬が稲株につまずいて転倒したところを討ち取られたとの伝承があり、そこから死の原因となった稲を祟る害虫になったと信じられたようだ。興味深い。


篠原古戦場 首洗池
住所:石川県加賀市柴山町 首洗池

画像1




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?