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嫌い、だけど好き(または『諦めの悪い、残念な悪足掻き』)

今年もまた、だめだった。

とある翻訳賞。今回で四度目の挑戦。今回は初めて、出来上がった訳文に自信があった。今までならほぼ直訳していた文章も「主人公はこの一文に自分の気持ちを投影しているんだよな」など文章の意味を考えつつ言葉を探したり、挿絵を参考に自然な言葉を模索したり、原文の音の流れを崩さないような言葉を選んだりした。過去三回では、まったく気にしていなかったところ。単語を間違えないように辞書オンリーで訳文を作っていただけ。でも今回やっと『翻訳』ができたような気がしていた。

そうやって音の流れや気持ちの表現を重視したのには、「歌詞を書く」という行為が関わっていると思う。たらたらと文章を綴るのではなく、決められた音の中でどう心模様や目の前の情景を表すか。繰り返す音の流れを遮らないようにどの言葉の音を軸にするか。かと言って、韻ばかりに囚われず歌詞の内容に合う言葉を探さなきゃいけない。ド素人で音楽理論も何もわかってはいない音痴人間の手慰みの歌詞創作だけど、一応そういうところは考えている(つもりだ)。今回の翻訳にそれが活かせた、と思っていたのに…。

四度も挑戦してまったくかすりもしなかったという事実。それが、私の言葉の存在価値の無さを裏付ける。

私の言葉には、優しさも温かみも美しさも包容力も何もない。あるのはトゲばかり。それに、汚泥のような不快さとウザさ、嫌味、凶器性、独りよがりの邪気の塊。掃溜めみたいな人間性をしていると、それ相応の言葉しか持ち合わせない。そんな奴が子供向けの絵本の翻訳だなんて。作者に対しての侮辱行為にすらなりかねない。審査員の先生方の見る目は確かだということだ。

結果が届いてから、言葉を出すのが怖くなった。誰かと話すにしても「今伝えたい気持ちはこうだけど、そのまま言っちゃまずいよね。あれ?でもどう言えばいいんだ?」言葉を選んであーでもなーこーでもないと脳内で議論しているうちに話題は別のものへと移っていく。結局何か話しかけられたり、自分の中で言いたい何かがあっても「あーですよね!はい、私もすごくそう思います」なんて定型文の繰り返しだったり「日差しはあるけど、風が吹くと寒いですね」みたいな気象予報士もどきの言葉しか言っていない。

SNSではこれまで通りに言葉を書いてみていた。自分の投稿をしたり、誰かにリプを送ったり。対面の会話ならキャッチボール必須だけれど、SNSならボールと言うより風船みたいなもので、誰かがキャッチしてくれることもあれば、誰かの視界には入っても目に留まることなくどこかへ消えていく。その不確かさ、浮遊感にどこか安心している。(いやもちろん、SNSでも会話のキャッチボール大切。)

ここまで1,000字超えてつらつらと書いて一つだけわかった。私は言葉から離れられない。

「言葉なんてもう嫌だ、どうせ私の言葉なんて腐ってる」そう自ら敬遠した『言葉』という存在に頼って自分の気持ちを整理しようとしている。それに費やした言葉の数々。思いを言葉にすると『自分の思い』がわかるような気がする。言葉を封印していた間、常にどこかもやもやしてもどかしさにイラついていた。でも今日、こうして言葉を出していると、ようやく心がすっきりした。

言葉に傷つけられてこようと、言葉を認めてもらえなかろうと、私は言葉から離れられない。言葉に頼って、言葉を恨んで日々を過ごしていくのだろう。いつかは、私の言葉で誰かを笑顔にしたい。言葉はすてきなものなんだと知りたい。

……思いの丈の吐き出しただけのとりとめのない駄文博覧会になってしまった…。長々とお付き合いいただきありがとうございました‹( _ _ )› これからも時たまお付き合いいただけると幸せです。

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