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「究極の一枚」を、あと80億枚

「これがありのままの私の姿だ!」って疑いなく言える自分の姿がひとつでもあったなら、この強烈なモラトリアムからだって抜け出せる気がしている。 




この世の全ての人ひとりひとりを美しく写した写真集が欲しい。

「美しく」というのは、被写体の本人が最も気に入るという意味。
一番理想の自分の写真。
それの世界全員分を集めた写真集が欲しい、という話。

人生で一度しかしないような豪華なおめかしをして、写真スタジオで撮ってもいい。
生まれ育った地元の思い出の景色に、普段着同然の素朴なありのままの姿でもいい。
ひとり一枚で撮らなくても、大切な人と一緒に写ってもいい。
本人が望む姿であれば、なんでもいい。
それが最も美しい姿ということにする。


理想の自分の姿って、一体どんなだろう。
抽象的な自問自答は大抵、考えすぎて答えを見失う。

ただ、生きている中で自分の理想に背く行動をしたときに感じる痛みは、確実に存在する。
「理想の自分の姿」なんて本当はない、なんて話はまるでない。

人と生きる中で、円滑なやり取りや生活のためにやらなきゃいけない小さないろいろ。
誰も気に留めない自然な姿でも、それが自分の望む姿に背いていれば、理想の自分が静かに悲鳴を上げる。


私の姿や行動を見て、周囲は私を理解していく。
ただ、それは正しい理解とは限らない。
理解というよりは、解釈と言ったほうがいいのかもしれない。

誰も自分のことに、それほど興味は持っていない。
されど、行動はしっかりと見ている。
そして、私の人物像が上書き保存されていく。
大した興味がないからこそ、何の用心も慎重もなく、イメージは固まっていく。
そのイメージが正しいのか、なんてわざわざ考えない。
容赦はない。

致し方なくやっただけ。
そんな行動であっても、それを捉えた他者の目には「それをする人」としか映らない。

その苦しさは蓄積していく。
晴らせた気分を味わったことはない。



どんな自分が好きなのか。
それを言葉にするのはとても難しい。
言葉にする気になるのも難しい。

自分を誤解されるのが嫌なくせに、易々と自分の胸の内を誰かに話したくもない、わがままな私だ。


だから、もはや伝わらなくてもいい。
ただ、理想の自分の姿が実体として存在したら、と思う。
好きな衣装を着て、好きな背景に囲まれて、好きな姿をした自分の写真がこの手にあれば、自分がいつでも見返せる場所にあれば、それほど心強いものはないのだと思う。

他人に自分をどう誤解されても、理想と遠い生活を強いられていても、「私にはこの本当の姿があるんだ」って、しっかりと確かめられる。
最悪の場合、見せつけてもやれるんだぞ、と。


そして、自分らしさを押し殺し、その痛みを抱きながら生き続けている人がいる。
そうでもしなきゃ生きていられなかった人が、きっと数えきれないほど存在している。

私の感受性では、それを救いのない嘆きとして見かけてしまうのがとてもつらい。
だから、みんなの理想の姿が詰まった最高の写真集が欲しいのだ。

どんな生き方をしていても、本当の姿を私は知ることができる。
すごく余計なお世話だけど、私はそれでまたひとつ優しくなれる。


写真一枚じゃ、きっと本当の人物像は伝わらない。
ほんの第一印象から、言われもないような偏見を抱き合って生きているくらいに、私たちは見えない背景を読む。

でも、それでいい。
写真一枚で構わない。
そこに写っている人の姿が、その本人にとって最高の姿なんだってことだけわかれば、それで十分だ。
私は誰かの写真から、その人物像を決めつけたりなんてしない。
どんな姿でも、絶対に馬鹿にしないから。



対象を「今生きている人」と仮定しても、概算80億枚。
とんでもなく分厚い写真集になりそうだ。
他にも「亡くなった人はどうするの?」とか「もっと若い頃の姿で写ってもいいの?」とか、気にしようと思えば気になることはいくらでもある。
だけど、どうせ実現性のない話なのでそんな細かいことは考えなくてもいいかな、と思っている。

そう、どうせ空想の話。
空想の話だとわかった上で、私はこんな写真集が欲しい。


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