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『カニのある日』

 11月のある日、お父さんがにこにこして帰ってきた。ボロアパートに似合わないくらい幸せそうな笑顔で。

「なに笑ってんの。ごはんのしたくするから手伝って」

 中学1年生で一人娘のわたしはお父さんを平気で急かす。他の子のうちでは父親のことを急かしたり怒ったりしないらしい。よく我慢できるなと思う。

「ももちゃんももちゃん! もーもちゃん、ねぇ! 早くこっち見てこっち見て! ももちゃーん、おーい……じゃーん!」

「しつこいし効果音古いから!」

 と指摘しつつも、お父さんが掲げているものには驚いた。紅色で、その形を見れば一目でそれとわかるもの、それは――

「松葉ガニでーす。ちょきちょき」

 このときのわたしは知らないが、父が松葉ガニと言っているのは「親ガニ」と呼ばれる、お値段的に手軽に食べられる小ぶりなカニだ。

「でもなんか小さめだね。この前130万円のカニのニュースしてたよ。鳥取のやつ。あれも松葉ガニじゃなかったっけ? それとは全然ちがうね」

「ももちゃん……鳥取の人と会ったことある?」

「ないけど」

「鳥取の人ってすっごいちっちゃいんだよ」

「……そうなの?」

 このときのわたしはまだ知らないが、翌日、友達にその知識を披露して大恥をかく。

 父によると、安かったので思わず買ってきたという。2杯の小ぶり(に見える)カニは、ビニール袋の中でまだかすかに動いている。カニなんて料理したことのないわたしは、どうすればいいのか戸惑っていた。

「味噌汁にしよう」

 と父が言う。

「カニの出汁が出てうまいんだよ。身もしっかりうまい。1人1杯ずつ楽しめるし」

 父がカニを担当し、わたしが他のおかずを担当することになった。父が台所に立つことはめったにないけれど、手際よく大根を短冊切りにして鍋に入れていく。

「染み込んだ大根もいいんだよなー」

 わたしはカニを食べたことがない。でも父の発言と無意識のにやけづらに唾をのんで喉を鳴らしていた。

 食卓にはわたしが適当につくった野菜炒めと、カニの出汁が入った味噌汁、味噌汁からあがったカニが乗った皿が2枚。ゆであがったカニは透明感のある赤から小豆のような濃い赤になっていた。

 いただきます、を言い終わるとさっそく父は一口味噌汁をすする。

「あーうまい」

 わたしははやる気持ちを抑えて普段そうしているように、楽しみにしているのを父に悟られぬように、ゆっくりと椀を口に運ぶ。湯気が独特の香りをつれて鼻腔を満たす。

「……おいしい」

 言葉が染み出していた。エビにも、当然イカにも出せないし似ていない「カニ」のうまみ。味噌汁はほっとする。でも、カニの味噌汁はうれしい気持ちにさせてくれる。

 舌を滑り、喉をつたって胃に到達するまでおいしい。そのうまみは当然大根にも染み込んでいて、単品でもいける味だ。まぁ味噌汁に入ってたほうがいいけどね。

 感動していると、父は甲羅を剥がしていた。わたしも見よう見まねで剥がしてみると、帽子を脱ぐようにきれいに剥がれた。膜が張っていたり、筆の毛の部分のようなとこが並んでいたり、どこが食べれるのか食べれないのかわからない。

 わたしは父を凝視する。父は甲羅の1,2センチのオレンジの塊を箸でつまんで口に運んでいる。そして顔をほころばせる。当然わたしのカニの甲羅にもオレンジの塊が、カニの目の裏側に埋まっている。わたしもオレンジで、どこか光って見えるその塊をつまみ上げ、口へとおさめる。

 んっ! 濃厚。濃厚なかけらが舌の上でほどけていく。舌に残る感じも嫌いじゃない。甲羅に申し訳程度に入っているカニ味噌(これは知ってる)もうまい。初めて食べるけど癖がちょうどいい。苦いわけでも臭いわけでもなく、大人の味だけど子どももうまいと感じるバランスのよさ。好き。

 気づけば5分ほど夢中でほじりほじり、むしゃぶりついていた。父はパキパキとカニの脚を折って身を吸っていた。見てみると、脚の両端を嚙みちぎり、筒状になったところを思い切り吸い込んでいる。すると、一気に身が口の中に入るらしい。

 箸で押し出したり、カニの爪で押し出したりする方法はなんとなく知っていたが、父の食いっぷりを見て、爪を直接吸ったほうがおいしいんじゃね? と思う。っていうか「吸う」ほうが正しい食べ方じゃね?

 わたしは女の子らしく、左手で口の前を隠し、右手でカニの爪を口に運んで両端を嚙みちぎった。そして吸う。しかしびくともしない。次は息を吐いて、全力で吸う!

 口の中に長細い身が飛び込んでくる。カニの身の塊を一口で食べるという贅沢感。口に広がるカニの香り。ゆっくり噛むと繊維がほどけていくのがわかる。ほのかな甘み。カニのうまみ。

 カニを堪能したわたしの皿には、しゃぶりつくされて軽くなった殻が重なっている。手にはカニの汁がべったりついていて、一度流しで手を洗おうと席を立った。

 わたしは父がカニにまだ夢中になっているのを確認して、静かに自分の指をしゃぶった。わたしの指は、今までで一番おいしかった。


おわり

※投げ銭制です。おまけは、僕の近況です。

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