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短編小説『神様の力業』

 一番乗りの教室は冷やされている。電気もついていないし、雲は分厚いから光も差してこない。椅子を引く音さえもなんだかひんやりしている。

 わたしはマフラーを巻いたまま、席に着いた。学校の便座よりはずっとずっとましだけど、スカートとタイツ越しの椅子も冷たい。

 誰も来ないままチャイムが鳴ると、先生が入ってきた。

「佐久間だけ?」

「あ、はい」

 今日は補習で、クリスマスイブだ。古典のテストで赤点を採った生徒はわたしだけだった。後半に固まっていた選択問題の解答を、解答用紙に1つずつずらして記入し壊滅的な点数を取ってしまった。

「……教科書、103ページ」

「……」

 先生は今日もサングラスを掛けている。レンズは茶色掛っていて、よく見ると切れ長のつり目が浮かび上がる。先生には、まじまじ見ると殺されるという噂があって、男子を震え上がらせていた。

 ジョン・レノンとヤクザを足して2で割ったような風貌で、長めの髪はゆるいウェーブがかかっている。天然パーマだと思う。あと、先生とすれちがうといい匂いがする。

 先生の授業はほとんどが板書だ。文字が黒板に並んでいくほど、白いチョークがコツコツ鳴って、チョークの粉が降った。

「ホワイトクリスマス」その単語を頭に浮かべると、教室の冷たさ、無愛想な先生の態度が、愛情の裏返しのように思えた。

 平安京にでもタイムスリップしない限り使わない言葉を、いま習っている。もしかしたら平安京の人が現代にタイムスリップしてくるかもしれない。でもたぶん、そのときは頭のいい学者が相手をしてくれるだろう。

 とか、くだらないことを考えてしまうくらい、先生の授業はいつも一方通行。生徒にわかりやすい比喩を入れたり、生徒と雑談を入れて休憩することもしない。

 もっと百人一首の恋愛の歌を混ぜて教えてくれたらいいのにと思う。限られた言葉で、運命を信じているくらいの、最大の愛をうたう。わたしも男女の運命を信じているから、彼女たちの気持ちがよくわかる。

「……雪」

 窓の外で、ティッシュを丸めたみたいな――これは言い過ぎだけど、大きな雪の塊がたくさん降っていた。

 先生もわたしの言葉につられて外を見ていた。

「お前の家、遠い?」

 唐突で意外な質問にわたしは言葉を詰まらせた。

「電車も停まってるだろう。ご両親も迎えに来られないようだったら送ろうか」

「あ、お願いします」

 戸惑ったけど、迷わなかった。


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「先生って仲いい生徒いますか」

「いない」

 ランドクルーザーの車内は片付いているけど、タバコ臭かった。わたしはその臭いが嫌いじゃなかった。

「なんでですか」

 家までは30分くらいある。でもこうやって先生と話せるのはいまだけだ。

 先生は訊かれたことしか教えてくれない。だからたくさん質問をする。

「高校教師の仕事ではないからだ」

「じゃあ、わたしと仲良くしてくれませんか?」

「だめだ」

 フロントガラスに積もっていく雪は、ワイパーの規則的な動きできれいに払いのけられる。
 先生は迷わず答えるからすごく痛かった。

「生徒は恋愛対象になりますか」

「ならない」

「わたしは?」

「なるわけがない。ならせない」

 先生は、考える前に否定することを決めている。消えてなくなりたかった。でも、これは運命だから。その想いがわたしを立ち上がらせる。

「いやです。わたし先生のことが好きなんです。キスもセックスもしなくていいので、卒業するまでそばにいさせてください。お願いします。でも先生がしたいならしてもいいです」

 ふっ。鼻で笑われた。

「自分勝手だよな」

 助手席のわたしに見せつけるように、薬指に指輪がはまっている。

「わたし、かわいくないですか?」

「かわいくない」

「でも、いままで8人から告白されたことあります。タイプじゃないのかもしれないけど、かわいいはずです」

「じゃあ訊くな」

 泣きそうだ。こんなに好きなのに――。

「わたし、先生に会う前から先生に会ってたんです」

 先生は、前しか見ていない。

「小学5年生から、ずっと同じ人の夢を見てきました。知らない男の人が何回も出てきて、わたしはその夢を見るととても幸せな気持ちになれるんです。
 この人と、ずっと一緒にいたいって思ったんです。それが、高校に入ってやっと出会えました。
 それが先生なんです。
 信じてくれますか?」

 これが運命であるなら、運命であることを言わなくてもよかったのかもしれない。
 でも、いまどうしても言いたかったのはなぜだろう。自分でもわからない。
 ただ、先生のことを想い続け、やっと二人きりになったこの瞬間を逃してはいけないと思っただけかもしれない。

「信じる」

 耳を疑った。

「信じるけど、従わない」

「どういうことですか」そう訊いても、雪は降り続ける。

「昨日は、車で送ってもらう夢見たんです。いまみたいに。
 最後、先生は笑って、わたしの家に入って、その……一緒に過ごしました」

 言葉にすることで、今日見た夢が正夢に近づく気がした。

「俺も夢を見た。俺が18の頃からずっと、16年間見てきた」

 先生の声のボリュームが少し大きくなる。ハンドルを握る手は、拳だ。

「好きな人ができても、忘れた頃にお前は現れて、俺の心をめちゃくちゃにした。お前のせいで恋愛ができなかった。夢に出る割にお前はまったく俺の前に現れないし」

 その告白は、わたしにとって幸福だった。先生にとって苦しいものだったとしても、わたしが生まれたときから、わたしのことを想い続けてくれた人が目の前にいる。胸の中があたたかい。

「でもそんな俺を受け入れてくれる人にようやく出会えた。幸せだ。この幸せは死んでも守ると決めた」

「じゃあ送ろうなんて言わなきゃよかったじゃないですか」

 うるさい、とつぶやいた声で、わたしはほんの少しだけ尿を漏らした。

「ちょうどまた忘れた頃だ。お前は現実に現れた。本気で殺してやろうかと思ったこともあった。
 でも俺は、お前が言う運命に立ち向かうことにした。だから誘ったんだ」

「先生の話を聞いて確信しました! これは運命だから! わたしたちはつながっているから! いまがだめでもどこかでつながってしまうんですよ!」

「お前は勘違いしている。結ばれるのが運命じゃない。結ばれない運命だってある。俺たちは結ばれない」

 車が停まった。雪こそ積もっているが、見慣れた一軒家。

「着いたぞ」

 先生は怒りと憎しみのこもった眼差しでわたしを突き刺した。最初は先生であることを強調していたのに、向けられているのは明らかに私怨だ。

「俺は勝ったんだ! 勝ったんだ! 勝ったぞぉっぉおぉっぉぉぉ!!」

 先生はハンドルに連続パンチを叩き込んだ。クラクションが空振りしている。はっきり決別したことで運命に勝ったと思っているらしい。

 確かに、20年近く夢に出てきた女の子が目の前に現れたら、運命だと思って恋をするのがふつうだ。でも、先生はその意思がないことをはっきりと告げた。わたしも諦めつつある。
 運命は、運命じゃなかった。

 涙がとまらなかった。クリスマスイブに、大泣きする女の子。かっこ悪い。

 わたしがドアに手をかけた時だった。

「……指輪がない」

 先生の薬指を見た。確かについていた指輪が消えている。

「あれ?」

 視界に入った我が家が、見たことのないアパートに変わっていた。

「どうした? 出ろよ」

 笑った、先生が。

「今日は寝かさないからな」下品に顔が歪む。

「奥さんは?」

「は? なに言ってんだよ。あー、結婚? 卒業まで待つって約束だろ」

 切り取られている。わたしにとっていいように、不都合なところだけ切り取られて、つなげられている。

 指輪が抜けるなんて考えられない。消えたとしたら、先生の奥さんはどうなったんだろう。赤の他人になった? それか存在ごといなくなった?

 でもなんで、わたしだけ記憶があるの。で、なんでわたし幸せなの。神様に強引に整えられた幸せなのに。

 いま喜ぶところまで、幸せなところまで、運命だったのかな。これからもずっと、運命なのかな。

 車を出ると、雪が止んでいた。空から落ちてきた一粒の雪が、わたしの右頬を弾いた。


おわり



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