ぼくりりの曲を聴いてきて思ったこと。
ぼくのりりっくのぼうよみ (ぼくりり) というアーティストがいた。
その人の音楽を聴いて思ったことを書こうと思う。
ただし書き方は、私の書きやすいように回想形式にする。そうでないと私の文章力では伝える自信がない。
私が初めて聴いたのは主観と客観をテーマにした曲だった。
そのMVのなかで主人公は自分の主観を刺し殺す。
それをぼくりりは他人事のように眺めている。
ぼくりりはひとまずこの世界を見ていた。
ぼくりりは、様々な曲を作りながら何を考えていたのだろうか。たぶん悲観していたんじゃないかと思う。
人生は予め敷かれたレールの上を転がっているようなものだと。
ただそうなっている、のだと。
私たちがあれこれ考えたり、苦労したりすることは、結局何の役にも立たないということ。
そもそも「役に立つ」をどう定義する?
瀕死の子供を助ける→その子供の役に立つ
子供の役に立つことには、果たして何の意味があるのか。そこに介在するのはいつもヒトの感情や、形骸化した倫理。
もともとそれはヒトの脳がそう動くようになっているから、発生する感覚。
つまり、あらゆる行動に意味を見出すのは困難である。
ならばどうする? 生きることそのものが目的?
もしそうなら、なぜ生きる? もう目的は達成しているのに。
ならばどうする? 死ぬ?
少なくとも死ぬのは嫌だ。私はそうだし、ぼくりりもたぶんそうなんだと思う。
だからとりあえず、悲観するしかない。
「まだせいぜい何百万年かの新人にどうか教えてくれ、How we live」
次。
ぼくりりのリスナーたちはぼくりりに理想を見た。ぼくりりは普通より頭が良かったので、多くの人が説明できない何かをある程度説明できた。
そしてリスナーたちは、ぼくりりに次なる説明を期待するようになる。それは、「リスナーたちの脳」が考え得る可能性の説明でしかなかった。
ぼくりりはそれを託されてしまった。
そこで思った。
ヒトが何かを考え、それを言葉にしたとする。
それを別のヒトが聞き、メッセージが伝わっていく。
このとき、聞いた側が受け取るのは言葉だけであって(表情や声色は限定的かつ使い古されたものだからとりあえず無視)、その言葉は必ず聞き手の脳みそというフィルターを通ることになる。
ぼくりりはそこで、言葉が完璧でなければ思いは伝わらないと思った(のではないだろうか)。
では果たして日本語はどこまで完璧なのか。そもそも完璧な言語など存在するのか。
ぼくりりは頭が良かった。だからほとんどのヒトは彼の書くりりっくを読むと感動した。
しかしそれは、ぼくりりが託された期待をただ形にしただけ。受け取る側が都合のいいように取り込んだだけ。ぼくりり(の中の人の)オリジナルではなかった。
例えば村上春樹は作品によるそれを肯定しているけど、ぼくりりはそれでまた悲観したかもしれない(しなかったかも知れない)。
そこで、ちょっと面白い(少なくとも私はそう思う)のは、悲観することでだんだんと楽観ができるようになったこと。
一度悲観しておけば、その世界がもつ意味は薄くなる。すると楽観しても焦りが生じない。
この世界はHollowだということ。
ただ、ぼくりり(の中の人)はぼくりりのその仕事をすぐには手放せなかった。そんな内面を見つめて再び世界をゲシュタルトした。
そんな自分を笑ってしまう。理想に過ぎないことを考えることしかできない。
「ああ、機械になろう。感情を手放して。何者でもない自分が潰れた卵みたいで笑える。ただの冗談。」
少なくともぼくりりの歌は、私の内面にある種の刺激を与えた。それは幸運にも私にとって前向きなものであり、そのような刺激を与えたのはぼくりりが初めてだった。
Hollow world。
もやもやとしている。
それが、ぼくりりのいろいろな曲を聴いた感想だ。
すべてを言葉にするのは、少なくとも今の私にはできない。
ぼくりりにもまた、できなかった。
ぼくりりの中の人は、ぼくりりという偶像を作り出した。それはある意味新種の芸術であり、鑑賞するヒトは各々の内面にそれを投影して、またはその逆をして、世界の構造の一部を見ることができる。
また、
ぼくりりの作る曲は、詩を抜きにしても素晴らしい音楽だった。
しょうがないのかも知れないけど、ぼくりりの新しい音楽が(皮肉にも)もう聞けないのは残念だ。
彼がまだ音楽そのものを嫌いになっていないのならば、個人的にはカバーとかやって欲しい。
まぁいい。
私の驢馬の糞みたいな文章力ではこれが限界だ。
ああ、ぼくりりの中の人が、普通に友人としていたらいいのに。
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