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ぎこちなき哉、人生! #3 《Sさんとピアノについて》

僕の初恋の人はSさんだ。

彼女はピアノが上手かった。最近は彼女のピアノを聞いていないけど、今もたぶんそうだ。

告白する一年と半年前の話だ

秋には合唱コンクールが開かれる。担任のT君(君で呼ぶのは生徒間での慣習だった)は優勝を狙っていた。

そんなT君の熱意が伝わり、僕たちのうち8割くらいは闘志燃えていた。

僕やSさんもそうだった。

僕たち二年二組は、ほとんどのクラスと同じように混声四部合唱だった。僕はテノール、Sさんはアルトだった。

クラスには、それぞれ、指揮者と伴奏者がいる。

彼らはは一曲を指揮、または伴奏し、一曲を歌う。

その年の勝負曲は、シダが指揮、Sさんが伴奏担当だった。

本番では、一曲目が終わると、シダとSさんは雛壇を降り、一曲目の指揮者、伴奏者とそれぞれ交代する。

観客や僕たちは無論、音を立てないので、雛壇を降りる足音や床が軋む音が異常なほど大きく響くことになる。

その音を聞きながら、僕たちは手の汗をスラックスに拭ったり、隣との距離を微かに調整したりする。

こんな感じかなあ、と去年のコンクールを思い出しながら、僕は大多数のクラスメイトと同じように、シダとSさんを推薦したのだった。

本番までは一ヶ月あった。

テノールの練習は僕が主導で行うことになった。

僕はなるべくSさんのピアノ伴奏のもとでたくさん練習したかったので、他パートのリーダーたちと上手く話をつけて、僕たちテノールはSさんがピアノを練習する音楽室に、比較的多く行くことになった。

しかしいざ音楽室に行くと、なんだか恥ずかしくて、Sさんから少し離れたところで歌っていたのだけれど。

「上手いね」

「ええーん、上手くないよ」

僕が勇気を出して褒めると、Sさんは口をへの字に曲げてそう言った。

ある日の練習終わり、僕は音楽室でMちゃんと話していた。

Mちゃんは僕と小学校からの友達で、Sさんとは中学校からの知り合いだけどとても仲が良かった。

「ショパンの、ノクターン2だよ! 知らない?」

Mちゃんは一瞬だけ考えて知らないと言った。

僕はその時ショパンが好きだった(そう言う音楽を聴くのがカッコいいと勘違いしていた)ので、ショパン好きアピールを数人の友人にしていたのだった。

「ねぇSちゃんっ、ショパンのノクターン2って知ってる?」

MちゃんがSさんに唐突に話題を振るので、僕の心臓は不整脈を起こしそうなくらい動揺した。

「あーあれね。ちゃんちゃん〜、ちゃんちゃららん〜ってやつでしょ?」

「弾いて弾いて」

僕は何も言わず2人を交互に見ていた。

SさんはノクターンNo,2の出だしを、ノクターンとは思えないくらいアップテンポで、三秒くらい弾いて、これでしょ? ○○君、 とあろうことか僕の名前を呼んだ。

「んだ。それ」

とっさのことに訛ってしまったことが恥ずかしくて僕はそれ以上続けることができなかった。

そんな僕を見て、僕の気持ちを知ってか知らずか、Mちゃんがクスクス笑っていた。

その日、僕は勉強部屋にこもってSさんに手紙を書いた。渡すつもりのない手紙を書いた。

拝啓

冬になりました。僕は冬が好きです。なぜなら雪を背にした君が美しいから。

こんど合唱コンクールがありますね。伴奏を務めるのは君です。君はピアノ弾くのが上手い。今まで練習の時に間違えたことは一度しかないと思います。その間違いさえも些細なものだけど、君はその日は元気がなかった。僕は君のそういう熱心なところが好きです。君は、みんなのためにと思ってピアノを弾かない。ただただ上手く、ピアノを弾きます。そして、知らず知らずのうちに曲が終わって、みんなは歌う前よりもいい気分になっています。君にはそういう才能があると、僕は思います。

僕は歌うことが好きです。特に、ピアノの伴奏に合わせて歌うことが好きです。

僕は歌う時、君がピアノを弾いている様子を想像します。すると、僕の耳に入ってくるピアノの音は、どれも君の指が奏でているのだから、くすぐったい気持ちになります。君のそのちょっと短い綺麗な指が響かせる音を僕は聞き、それに合わせて僕は歌う。そんな時僕は、食パンに挟まれたような気分になります。そして最後には君に食べられたい。

星の王子様の話を知っていますか。僕はあのお話の中で、パイロットが夜空を見上げてバラのことを考えるシーンが好きです。星にバラがあるかどうかわからないのなら、あると信じていることでその星は意味を持つ。僕にとってピアノにはそんな意味があります。

その辺りまで書いて、僕は手紙の文章を青い蛍光ペンで乱暴に塗りつぶした。蛍光ペンのインクが滲んで、手紙は読めなくなってしまった。

一週間くらいはその手紙を本棚の上に無造作に置いていたけど、ある日破って捨ててしまった。

自己嫌悪に苛まれることはよくあった。手紙なんて書くものじゃないとわかっていた。当時、手紙は自己嫌悪の前触れだった。

僕は結局どうしたいのか。答えはもうとっくの昔に出ていたのに、ほぼ一年半の間、行動に移せないでいた。

合唱練習の後、Mちゃんと笑い合いながら教室へと戻るSさんの後ろ姿を、僕はただぼーっと見ていた。

そしてその年、Sさんの伴奏で歌った僕たちは合唱コンクールで優勝した。

「私は、二年二組の一員でいられて幸せです」

それが、優勝インタビューでのSさんの言葉だった。

それを聞いた僕は涙目になって、もう手紙のことなんかすっかり忘れていた。来年の合唱コンクールが楽しみで仕方なかった。

しかし翌年、僕らはアカペラで歌うことになり、僕がSさんのピアノを聞くことはなかった。

それでもその年、僕はシダと協力し、クラスの絆をより強固なものにし、二年二組はふたたび優勝する。このことはいずれ話そうと思う。

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