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ぎこちなき哉、人生! #4 《ブックカバーと紐について》

僕はよくSさんに、あの本読んだ? と話しかけた。

Sさんは読んでいないことの方が多かった。それは始め、僕と彼女の趣味が違っていたからだった。

当時、僕は純文学やファンタジー、恋愛ものを好み、彼女はミステリーやホラーを好んだ。

ある時僕は「ノルウェイの森」を彼女に薦めた。そして、かいつまんであらすじを説明した。

「ノルウェイの森」は、ある日突然恋人を失った直子と、その旧友ワタナベによる恋のお話だと。そして、僕はその本から生死観を学んだと。

「それ、何ページくらい?」

「うーん、上下巻あるからだいたい……」

「え、二冊? ちょっと無理かも」

その時期、僕たちは受験にさしかかっていた。

確かに呑気に本を読んでいる場合ではなかったのかも知れない。

ただ、僕は高校受験というものをそれほど恐れてはいなかった。そして口には出さなかったけれど、Sさんもそれは同じだったはずだ。

僕たち二人の成績は、学年では一位と二位だった。それに僕にとって、本を読むことは受験勉強と同じくらい意味を持った。

Sさんも同じ。しかしそれは僕の思い込みだったのだろうか。

僕とSさんが本について話すようになったのは、二年生のはじめ頃からだ。そのきっかけについて話そうと思う。


「『告白』。知ってる?」

Sさんが口にしたのは、五年前に映画化した本のタイトルだった。

「いや、わかんない」

「図書室にあるよ。年季が入ってる感じだけど」

僕はその日の放課後、図書室に向かった。

本棚の「ま」行のところにその本はあった。

表紙が破れかけているハードカバーの単行本。手垢なのか日焼けなのか、ページの紙は黄ばんでしまっている。

僕はその表紙を撫でて、ぞくぞくっとした。

Sさんがこの本を読んだ。彼女がこの本に触れた。僕は今まさに、同じものに触れている。

その日、僕は夜もすがらその本を読んだ。

読み終わると布団の上でしばし結末の余韻に浸った。僕は今まさに、彼女と同じ(かそれに近い)感覚を味わっている。

僕はこの時の快楽を忘れられず、幾度となくSさんと本について話すようになった。僕が味わった快楽を、願わくはSさんにも与えたいと思った。

しかしSさんは、僕の紹介した本をあまり読まなかった。

考えてみれば何も不思議ではない。僕は、Sさんも僕と感覚を共有したいのだという前提があることに気がつかなかった。気がつきたくなかったのかも知れない。

ある日、僕はMちゃんに本をあげた。

当時映画化した中編恋愛小説だった。

Mちゃんは大いに喜んだ。そして読んでくれた。

僕は友達として素直に嬉しかった。身体の内側にじわじわと温かみが広がった。

僕は何とかして、Sさんに自分が読んだ本を読んでもらいたいと思った。

だから今度も恋愛小説の、ただし長いものではなく、そして映画化した作品を貸した。

Sさんは面白がって読んでくれた。

その本には栞として使う細い紐がついていた。

紐の色は茶色で、その繊維は光を淡く反射する。

Sさんは茶髪だったのだが、そのさらっとした髪は、色や光り方がその紐とそっくりだった。

一週間ほどして、Sさんは僕に本を返した。

「はい。これ読んだよ」

Sさんが僕に本を手渡す。

「うん、面白かった?」

Sさんのちょっと短いけれど美白な指に、触れた。

Sさんは「面白かった」以外に特に感想を言わなかった。

僕はもっと長くSさんと話していたかったので、何か言おうと努めて、次は何がいいか聞いてみた。

「もっと面白いやつっ」

Sさんははにかんで自分の席に戻っていった。

その日帰ってから、僕はその返してもらった本から最新の注意を払って(とくに注意が必要な理由はなかった)、本屋で付けてもらったブックカバーを外した。

その薄い紙でできたブックカバーは、特定の箇所が少しよれていた。

僕はそこを撫でて、我慢できなくなって頬にこすった。

その後、本の紐がに目がいった。

紐は、その時の僕にはSさんの髪の毛にしか見えなくなっていた。

そこから先の僕の行為は、見るに耐えないものだったと思う。

ああ、ぎこちない。

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