人は変われない
人間個人の本質は年月を経ても変わらない。
そう思った話。
先日運動公園をランニングをしていると、ラグビー場で高校生がラグビーの練習試合をしているところに出くわした。
何を隠そう、私も高校の時はラグビー部に所属していた元ラガーマンだ。
試合をしているのは、どこの高校かも分からなかったのだが、プレー中にミスをして監督に大声でドヤされる高校生を見ていて、私は昔の自分と重ね合わせずにはいられなかった。
視線はプレーを見ながらも、思考はどんどんとラグビー部員であったあの頃に遡っていった。
当時の私の部は、部員の人数もさほど多くなく、3年生の時点では私を含め3年生は皆レギュラーだった。
私個人はどんな選手かと言えば、決して体格にも恵まれず、足が速いわけでもない。
これと言って光る部分が無いのに、ただ何となく他の人がやらないポジションに上手く自分の席を設けてレギュラー面をしている雑魚選手であった。
今思えば、雑魚なのだから改善すべき点が数多くあったはずである。
自分の弱点を克服したり、長所を伸ばして高みを目指すのがスポーツの醍醐味であるのに、当時の私はどれも出来ていなかった。
何故頭を使って練習方法考えて、弱点を克服していくようなことをしなかったのか。
何故、だらだらと練習をして、やった感に浸る日々を過ごしてしまっていたのか。
疑問の答えは、そもそも私がラグビーをやっていた目的を考えるとその理由が見えてきた。
当時の私は、ラグビーをやる目的が、「強くなって勝つため」ではなく、「楽しくみんなと過ごすため」になっていたのだ。
仲間と過ごす時間は楽しいし、ラグビー部には自分の居場所があり、安心する。
そりゃ強くならない訳である。
この高校の部活動での在り方が、その後の人生にも現れていると思うところがある。
それは、私の今の仕事に対する姿勢だ。
今の私は眼の前の与えられた仕事をやるだけで、将来に向けて積極的に仕事関連の勉強したほう方が良いんだろうなと思いながら、結局何もしていない。
職場に自分の席があり、仕事があるだけで満足してしまっている。
ここでまた目的について考えてみる。
私が仕事をする目的とは何か。
もし、私が高校の時に「強くなって勝つため」にラグビーをしていたら、今の私はきっと「出世して偉くなるため」に仕事をしていただろう。
だが、現状の私は「平穏無事に生きるため」に仕事をしている。
結局求めるものが高校生の時と変わらないのだ。
結論、私は居心地の良い場所で平穏な日常を過ごしたい人間なのだ。
そして、この私の本質の部分は高校の時から今まで変わっていない。
人間、いくつ齢を重ねても、なかなか本質は変わらないものなんだなあと実感した。
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