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信じているものは何(26)

これで最後なのか?

会社の同僚と、プチ飲み会を行っていた最中、携帯が鳴った。

ちょうど、仕事で遅れての参加だったので、最初の一杯を飲む直前でした。
そのままお預けとなりながらも、まずは電話に出た。

Mさんでした。

Mさんからの電話は、当時では月に一回程度に減っており、
身体的な負担はなかったが、日に日に内容が、きつく、
精神的な負担は増すばかりでした。

M「今何をなさっていますか?」
私「会社の帰りで、皆とお店に居るけど、どうしました?」
M「最近は、お忙しいですか?」
私「そうですね、毎日こんな感じですよ」
M「私、もう夙川へは行かないと思います。」
私「そうなんですか?私も最近は行けてませんけどね」
M「このまま、私は消えていくんでしょうね
  誰にも、抱かれないまま」
私「何を言ってるんですか?将来のことなんか
  分からないじゃないですか」
M「いえ、ないんです。私は、もういいかなと
  思ってます。」
 「私のために祈っていただけますか?」

このような会話が続きました。
これ以上の詳細は、記憶が曖昧なので控えますが、
結論として、一度抱いてほしいということを言われました。

もちろん「できない」とお断りしました。

そこで、電話は終わりました。1時間は過ぎていたと思います。
この後のお酒が喉を通らなかったのは言うまでもありません。

しかし、こうして幻視、幻聴の方々とのお付き合いは終わりを
迎えたのです。
あまり後味の良いものではありませんが、時代が変わったのか、
見えない何かが、私を救おうとしたのか、私を貶めようとしたのか
定かではありませんが、今、こうして書けるということは
良かったことなのかも知れません。

じつは、この頃の私は、かなり世俗化しており、心の奥底に
信仰はあるものの、手放しで信じることができなかった、
というより、一生懸命信じようと努力をしたが、弱い自分が
いたことと、ここまでしても本当は嘘なんじゃ?と懐疑的に
見てしまう自分がおり、弱さに拍車がかかっていった。

それでも、私はクリスチャンという自覚があった。
最後は懺悔して死にたいと考えていた。
その準備も少しした時期もあった。

クリスチャンであるという側面で物事を見ることが多く、
ユダヤ教やイスラム教、ギリシャ正教会など、さまざまな
宗教がある中、カトリックという立場を取り物事を見ていた。

カトリックは、主とペトロから続く、それこそ万世一系の
ではないが、一本続くものと考えていたので、他の宗教は
異端視していました。

とはいうものの自身の信じる神の怖さもまた感じていた。
「イエズス・キリストを信じなさい、そうすれば
 あなたも、あなたの家族も救われます」

この言葉は、裏を返せば、信じないものは救われない
ということになります。

何と恐ろしい、しかし神とはそういうものだと私は
信じています。愛深い存在であるが、絶対正義の存在
なのです。

宗教と神と人間

人は都合の良い生き物であることは、皆さんも承知のこと
だと思います。普段の生活で、時折考えることはあるものの
多くの時間は、今日のご飯はどうしようか、
週末はどこへ行こうか、仕事の事、人付き合いのこと
など、普段の生活のことを考えることで、時間が過ぎて
行きますね。

しかし、一度難が降りかかると、待ってましたかのように
神頼みが始まる。

私自身がそうでした。
とってもつまらないことではあるが、普段はあまり教会に
行かないが、会社で失敗した時や、彼女に振られた時、
家族が病気になった時には、仕事の帰りに教会に寄ったものです。

そしてその難が過ぎ去ると、また普段の生活に戻り
教会にはあまり行かなくなります。神頼みは困った時だけする
という悪い人間の標本のようになっていました。

でも、これは、まだマシな方ですね。
教会に行くだけマシな方です。そんな時期でした。

その後は一年に一度行くか行かないかという
状態になっていまっていました。

なぜ、足が遠のいたのか、次回少しまとめてお話しします。
私の信じるものを少しおさらいしましょう。

・・・。

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