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信じているものは何(32)

信じるものもおぼろげな形になり、
心の中の柱を、はっきりさせたくもがいていた自分を
どこかで見つかるかもしれないと、動き始めました。

そして、タイに旅行に来た。
タイに降り立って、街を歩いてたところ
オレンジの袈裟を着た僧侶を見かけた。
すると、一人の女性が駆け寄り、お布施(タンブン)
をした。

その時の光景が今でも忘れられないのですが、

僧侶の持つ入れ物に、御供物を入れたかと思うと
靴を脱ぎ、跪いたのです。

そうです、裸足で跪いたんです。

そして、御経を唱えてました。
もちろん僧侶も裸足です。

21世紀のこの時代に、大都会の路上で、そういう光景を
見るとは思わなかったので、割とショックを受けました。

朝の托鉢(タンブン)

この信仰はどこから来るのだろうか?

タイは仏教の国です。
仏教の国になるまでは聖霊信仰といって、
地の神様のような信仰があったが、
時の王が、王朝(国)を立て直すために
仏教思想を取り入れたため、自らも出家したそうです。

こうして仏教国になったのですが、他の宗教も拒絶する
訳ではなく、イスラム、キリストetc、日本同様に
受け入れられております。

とはいえ私はクリスチャンであることから、
まずは、教会へ行きました。

BTS(スカイトレイン)サパーンタクシン駅から
徒歩10分くらいのところにアサンプション大聖堂が
あります。

ここは、タイのカトリックの中心的存在の場所であり
聖堂も立派なものでした。

アサンプション大聖堂

どこにでも教会があるということは
信者にとって素晴らしいことですが、
母国語でのミサなので、違和感と共に不思議な感じにもなります。

しかし、所々にラテン語が出てくると、スッと心に
入ってくるのは、伝統的な教会言語であるからでしょう。

しかし、今はこの伝統は一般のミサでは排除されました。
信仰心を削ぐ改革だと私は思っております。

ちょっと話はそれますが、
苦労して手に入れたものには価値がある。
価値があるものは苦労して手に入れたもの。
苦労をした方が身に付く。

何をするにしても、そのスペシャリストになるには
相当の努力が行われているものです。
初めは誰も何もできない、でも努力することで
できるようになる、そうなれば簡単に忘れることはない。

しかし、努力せずに得たものは、すぐに無くなるものです。

わたしの身近な例で話すと、言語の世界ですが、
言語を習得するには、何回も読み、話し、聞き、
そうして習得するものです。

すぐに意味を見て、わかったつもりになっても
またすぐ忘れるものです。

わからなくても、自分で考え、何回も学習し習得したものは
なかなか忘れないんですよね。

話を戻しますが、
タイには立派な教会がある。
それだけで、私は安堵の気持ちが出てきて
この国に興味を持った。

さらにこの国「微笑みの国」の人々にとても興味が出てきた。
「微笑みの国」というのは、私は違うと思うのですが、
これは、「外国で生活をすること」のnoteをお読みください。

タイでも私的なことは省略しますが、色々あり
この国の人が家族になり、現在タイで暮らしている
という結果になりました。

私にとって、とても大きな変化で、大きな決断でした。

日本では、営業所を任されており、時期は昇格するかも
しれないとされていたのですが、この決断は、自身の
答えを出すために決断したものでした。

そして今から(現在2023年)5年前に来タイしました。

しかし、ここから私の価値観というか宗教感というか
信じているものが、ぐらぐら揺れ動いていくんです。

・・・・
EK

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