ゲームデザイナーインタビュー、のようなもの:Matt Leacock

1年以上前(2014年9月)、いくつかのインタビューを読んだ後に、Matt Leacock氏に聞いてみたいことができた。和訳転載許可をお願いする際に、直接メールで質問しても良いかと聞いてみたところ、快諾して頂いた。インタビューというほど体裁の整ったものではなく、むしろ自分の感想をぶつけるような形であるので、そのまま訳出しても読み難くわかり辛いものになってしまうため、大幅に簡略化して紹介する。私自身の意見を書いた上で、それに対してのMatt Leacosk氏の返事やコメントを付記する、という形式をとる。この通りの内容を英語で送ったわけではないこと、また氏のコメントも正確な翻訳ではないことをご了承頂きたい。見知らぬ人間からの拙い英語のメールに対して丁寧に回答して頂き、大変感謝しております。ありがとうございました。

アルファプレイヤー問題

【アルファプレイヤー問題、はいわゆる奉行問題のことである。基本的には“特定のプレイヤーが他のプレイヤーの行動をコントロールしてしまう”という状況を表す言葉で、協力型ゲームで特に問題視されることが多い。協力型ゲームが構造上こうした問題を引き起こしやすいためであるが、通常の競争型ゲームでも同質の問題は起こりうる】

2023年追記:アルファプレイヤーという表現は、動物の群れの中で支配的な地位にある個体をアルファと呼んだことからの転用である。アルファという呼び方は元々飼育下の狼の生態研究から生まれた言葉で(初出は1947年)、その後1970年の”The Wolf" (David Mech)という本で使われたことにより一般化した。しかしこれは血縁関係にない個体を一緒に飼育した場合に発生した例外的な事象であり、野生の狼は基本的に父母と生後1~3年の子供で構成され、アルファ・ベータのような社会構造ではなくむしろ家族的な構造であるようである。これを受けてMech氏はアルファという表現には意味がないどころかむしろ力による支配的な社会構造を示唆する弊害があるとして使用を止めたとのことである。わかりやすく便利な概念であるためについ私も使ってしまうのだが、実際の動物の社会構造を反映したものではない、あるいは単純化・誇張化したものである可能性については心に留めておきたい。
参考:List of dominance hierarchy species (wikipedia), Is the Alpha Wolf Idea a Myth? (Scientific American)

インタビューの中で、Matt Leacock氏は「アルファプレイヤー問題は、ゲームデザインの問題と言うよりはプレイヤー・遊び手の問題である」と示唆しているが、私自身はこれに同意するものである。アルファプレイヤー問題をゲームから完全に排除することができたとして(そもそもそれ自体不可能だとは思うのだが)、それはおそらく協力型ゲームの魅力の一部を消してしまうことになるだろう。私にとって協力型ゲームの魅力の多くの部分は、会話やディスカッション、ブレインストーミングの楽しさ、そこから生まれるポジティブな連帯感やクリエイティブな体験に由来する。一方である程度の会話があれば、誰かがその会話を「仕切ってしまう」可能性を排除することはできない。アルファプレイヤー問題は協力型ゲームの魅力(の一部)と表裏一体であり、それ単体を問題とみなすよりも、問題を引き起こす可能性と問題が発生しなかった時の楽しさのトレードオフとして考えるべきだろう。アルファプレイヤー問題が発生しうるから、といってその可能性を排除することばかりを考えると、結果として角を矯めて牛を殺す、ということになりかねない。

例えばリアルタイム要素を入れることでアルファプレイヤー問題を解決しようとしたゲーム、が存在する。あるいはアルファプレイヤー問題と関係なく面白さを追求した結果リアルタイム要素のある協力型ゲーム、ということになったのかもしれないが、少なくとも一部のユーザーが「リアルタイム要素があるおかげでアルファプレイヤー問題が発生しない」と評価していたりするのだから、まあそう考えても大きな間違いではないだろう。Space AlertSpace CadetsEscapeWok StarZombie 15'などが当てはまるだろうか。こうしたゲームも勿論面白いし、プレイヤーがみんなで同じ問題に取り組んでいる、という感覚は得られるのだが、それがいわゆる協力型ゲームと同質の楽しさなのか、というと決してそんなことはないと思う。例えばパンデミックで、全員が知恵を絞ってどうすればいいかを一緒になって考える、という体験の持つ楽しさとは違うと思うのだ。協力型ゲーム、というまとめ方をすることで、あたかもそれぞれの持つ面白さが同じものであるかのように錯覚をしてしまうが、それぞれ異なる魅力を持つゲームなのである。

ML: 良いポイントです。プレイヤーが処理できないような情報量を一気に与えることでアルファプレイヤー問題が起きないようにすることは可能ですが、それは問題を解決しているのではなく、問題の性質を変えているだけだとも言えるでしょう。

ML: 私はダイナミックで、生きているような、創発的なシステムを作りたいのです。プレイヤー達が協力して解決する必要があるような問題を提供するシステムを作りたいのです。問題は、みんなで考える必要があるほどに難しくなくてはなりません。異なる見方、異なるアプローチを取ることに意味があるような問題です。おそらく、解決方法は1つではない方が良いのでしょう。プレイヤー達がそれぞれ異なる正解に辿り着けるように。

「アルファプレイヤー問題をいかに回避するか」についての議論は多いが、一方で「どうすればみんなで楽しく協力できるか」についての議論は少ないように思う。もちろん、両者は表裏一体で、あるメカニズムが両方向に働くことはある。例えば各キャラクターの固有能力は、他のプレイヤーが他者のキャラクターに干渉しにくくすると同時に、「あ、私はこれができる!」という独自の視点を提供することで協力するという感覚を強めてもいる。むしろ多くのシステムは実際に両方向性の機能を持っていると言うべきであろう。しかし、協力型ゲームに関しては「アルファプレイヤー問題の発生と対策」というネガティブな形で議論されることが多いように感じている。むしろ「どうやって協力を促進していくか」というポジティブな形での議論・発展を考えていくべきなのではないだろうか。

ML: そうですね。ゲームを難しくするためにプレイヤーに制限を課すよりは、私は目標を高くしてその分プレイヤーに力を与えるようにしています。例えば、パンデミックでは手札を他のプレイヤーから隠すという制限(やや不自然な制限に思えます)を撤廃して、今はむしろ見せ合うことを推奨しています。私が思うに、各プレイヤーがなんらかの形で”輝ける”ようにするのが良いのでしょう。特別な能力や役職、情報などによって。これは他のプレイヤーとの差別化にも繋がります。私はいつも、プレイヤーの自主性を強めるようなものを考えています。簡単なことでも良いんですよ。例えば、それぞれの駒は担当するプレイヤーが動かすこと(あるいは、他のプレイヤーが動かす時は担当するプレイヤーの許可を得ること)、とかね。他にも例えば禁断の砂漠では各プレイヤーは自分の持っている水の量をチェックしているから、自分の水が他のプレイヤーよりも少なくなると声を上げるようになる、というのもそういう仕掛けの1つですね。

ストーリーテリング

協力型ゲームには非常にストーリー性の強いゲームがたくさんある。よりRPGに近いタイプの協力型ゲームに比べ、Matt Leacock氏のゲームはむしろユーロスタイル寄りであり、ストーリー性は薄いと言えるだろう。もちろん、疫病に対抗するとか、宝物を探すとか、ざっくりとしたストーリーはあるのだが、詳細が設定されているわけではない。キャラクターには名前がないし、それぞれに背景情報があるわけでもない。ゲーム中に起こることは基本的にルールで記述されてシステマティックに処理される。状況を描写するようなフレーバーテキストもない。でも、ゲームの中で物語が生まれる、という感覚は弱くはないのだ。むしろ、物語が用意されているRPG的な協力型ゲームが、時として「準備されたストーリーを読んでいるだけ」と感じられることがあるのに対して、Matt Leacock氏のゲームは、ルールで記述されたイベントが結びついて自然と物語になることが少なくない。先日、レビュー動画を見ていたら、とあるRPG風協力型ゲームを「Story-DrivenだがStory-Tellingではない」と評していたのだが、パンデミック禁断シリーズについて言えばその逆で「Story-Drivenではないが、Story-Tellingである」と言えるのではないか。もちろん特に禁断シリーズに関して言えばイラストやコンポーネントの質が想像力を刺激して物語性を高めている部分もあるだろうが、しかしそれでもシンプルなルールがこれだけの物語を想起させてくれる、というのは驚きである。

ML: そうですね。私はストーリーを生成するシステムが好きなのです。私自身が書いた文章を見せて、「ゲームを読ませる」ようなことはしたくありません。私はその代わりに「イベント生成機構」を作って、良い物語の元になるような、テンポの違いや節目となるような場面を提供するようにしているのです。

一方で、Matt Leacock氏が現在取り組んでいるプロジェクトを考えると、ストーリー志向を目指しているようで興味深い。パンデミック・レガシーはレガシースタイル(リスク・レガシーで“発明”されたスタイル。「遊んだ結果が次に遊ぶ時に影響を及ぼす」的な仕掛け)を取りこむことにより、より長期的なストーリーを意識したものになるだろうし、おそらくキャラクター性も強くなるだろう。また、サンダーバードボードゲームは当然のことながら名前も顔も背景設定もあるキャラクターをベースにしたゲームである。協力型ゲームとストーリー性は相性が良く、近年の協力型ゲームの発展の中にはストーリー性の追求というトレンドもあるように思う。まだまだ可能性のある分野であり、今後の発展に期待したいところである。

ML: 今、Rob Daviau氏(リスク・レガシーのデザイナー)と共同でパンデミック・レガシーをデザインしています。レガシースタイルにはあなたの興味に関連した2つの要素があります。「1.(RPG風協力ゲームにあるような)ゲーム中の状況を説明するテキストを多く入れられること。」と「2.過去の行動の“記憶”を長くゲームに残せること。それぞれのプレイグループで起こったことを記録して“これから”のプレイに反映させること。」です。フレーバーテキストを多く入れられることで、状況を設定することが可能になります。多くの人が歓迎してくれると思います。しかし、本当に重要なのはゲームを遊ぶ度に変化していく要素の方だと思います。パンデミックの良さはすべて残した上で、ゲーム自身が積み上がっていくのです。テレビ番組の1エピソードを見るのと、1シーズンすべてを見るのとの違いのようなものです。パンデミック・レガシーにはより大きなストーリーがあるのです。

パンデミック・レガシーについてのインタビュー動画で「パンデミック・オン・ネットフリックスみたいな感じ」と言っていたが、なるほどそれは面白そうである。パンデミックのテーマとは相性も良さそうだ。なかなか継続して同じゲームを同じ面子で遊ぶことができないので実際に遊べるかどうかはわからないが、期待したいところである。ただ必然的に言語依存度が高くなるわけで、ストーリー志向のゲームには興味があるものの言語の問題があって難しいところではある……と書いたのが1年前で、現実にはしっかり日本語版が出ているのだからありがたいことである。しかしこの値段で翻訳作業の分もペイされているのだろうか?日本語版をどのくらい刷っているのか知らないのだが。

インタビューを読んだ上で

いくつかのインタビューを読み、動画を見、そして直接メールで会話をして、非常に問題意識をはっきり持ってデザインしているのだろう、という印象を受けた。プレイヤーにどういう体験を与えたいのか、その上でなにが問題になりうるのか、その問題はどうすれば解決するのか、そのためになにをしなければならないのか、ということを考えていて、しかもそれを言語化できる。非常にプレイヤーの視点を意識してゲームデザインに組み込んでいる、ように思う。この辺りは、あるいは元々のユーザー・エクスピリエンス・デザイナー(が実際どんな仕事をしているのかよくわかってないのだが)としての経験が活きているのかもしれない。そういう意味ではコピーライター出身であるRob Daviau氏との共同デザイン、というのは互いの長所を引き立てあう組み合わせなのかもしれない。余談だが、両者はアメリカの東岸と西岸に住んでいて、共同作業も数時間の時差をまたいでのウェブディスカッションで、という話(どこかのインタビュー動画で見た)が個人的には面白かった。

専業ゲームデザイナーとなって、更に精力的な活動を続けるMatt Leacock氏の今後の活動に注目したい。Pandemic LegacyのSeason 2はあるのだろうか?協力型ゲーム以外の作品にも期待したいところである。

最後に、どこの誰かもわからないような人間のメールに、丁寧に対応して興味深い考えを披露してくださったMatt Leacock氏に改めて感謝を。ありがとうございました。

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