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ダメ人間による回り道ライフ〜リスクのある選択で得た「おみやげ」とは〜

こんにちは、いけかよです。

去年から今年にかけて、大学生や就活生などの若い人たちにお話をする機会が何度かありました。
「キャリア形成」や「就職」というテーマで、僭越ながらわたしの社会人になってからの経験を振り返ってお話をさせていただいたのです。
そこで感じたこと、学生さんたちの思いや、もっと伝えたくなったことを、ここに記しておきたいと思います。

ダメ人間万歳(いやマジで)

とはいえわたしはまったく人に自慢できるようなキャリアパスではなく、謙遜でもなんでもなく“会社員”としては決定的にダメ人間ですから、独立するまで(37歳頃)はそれなりに「泥水飲んできた」という自覚があります。

どれくらいダメ人間かというと、

●上司からの命令でも納得できなければ従えない
●会社の規則はわりと平気で破る(副業が禁止でも「知るか」と思ってやってました)
●目上の人でも「こいつアホちゃうか」と思うとそれが態度に出る(しかし一生懸命我慢はしているつもり)
●仕事がつまらないと鬱になる
●声がでかい(通る)ので悪目立ちする
●なのに小心者なので嫌がらせのターゲットにされやすい
●基本的に我慢ができないので仕事に飽きたらすぐ辞める
●「お前クビ」といわれたことが記憶の範囲内で3回はある
などなど。

いまでこそ副業(複業)は認知が広がってきましたが、私は手取りが安すぎて「やってられっか」と思い、いきなり新卒の年から会社員の傍ら副業で飲み屋のアルバイトなんかをしていました。
なので、仕事がつねに2つ以上という状態がデフォルトに。
さらにそれぞれの仕事をなんども転職を繰り返したので、正確にカウントはしていませんが独立するまでにした転職回数は30回くらいにはなるんじゃないかなぁ、と思っています。

大学生たちに講義でお話をするため、社会人になってからいままでの約20年間をふりかえって棚卸ししてみたのですけど、「言える範囲だけ」でもけっこうむちゃくちゃな会社員時代(笑)、いろんなところにぶつかって大失敗もいっぱいして、挫折も絶望もしたけど、それがあって今の自分があると心から思っています。

「あそこまでする必要なかったな〜」とか「あんなことようやったな…」とか「二度と戻りたくない」とか思うことはありますけど、でもすべて、そのときそのときの自分が決めて選んだこと。

良くも悪くも人の話を聞かない性格が功を奏した…とまで言えるかはわかりませんが、とにかく考えるよりもまず自分で経験してみる、体験してみる、そうすればもっと成長できる!という気持ちが強く自分には作用していたことがわかりました。

まあ、悩んでいる時間もないくらいいつも追い詰められていたというのもあるのですけど(苦笑)。

「損したくない」というケチなひとたち

そんなわたしの経験談をきいた学生たちからは、講義のあとさまざまなフィードバックが寄せられました。
「行動力がスゴイと思った」とか「かっこいいと思った」とか「話がおもしろくない瞬間が少しもなかった」とか、「君らだれかからお金もろてるんか?」と思うほどの身に余るお言葉が。

一方、「ちょっと引いた」「自分がこのように生きたいとは思わない」というとても正直な人もいて、これはこれで「ウム、君、正直でいいね!」という気持ち。

まあ、まだ社会経験の少ない学生さんですから、いろんな意味でわたしの人生は奇妙キテレツに映ったのかもしれません。

しかしすごく気になったのはフィードバックのなかの質疑の欄。

「どうすればそんなふうに前向きになれるのか」
「どうすれば自分に合った会社をみつけられるのか」
「どうすればそんな行動力が身につくのか」
「どうすれば周りに流されずに我道を進めるのか」
「どうすれば自分の向き不向きを知ることができるのか」

もちろん「質疑」ですから「どうすればいいですか」という質問がくるのは当然なのですが、何十人もの生徒たちからの「どうすれば」に、わたしは言い知れぬモヤモヤを抱いてしまいました。

感じたのは「このひとたち、ケチやなぁ」ということ。
質問にコメントで返答しながらもわたしが感じたのは「そんなん自分で経験せんとわかれへんやん」ばかりだったから。
つまり、質問者の言葉から「損したくない」「回り道したくない」「失敗したくない」という気持ちが透けて見える気がしたのです。

それは、わたしなりの表現で言うなら「マインドがケチ」ということ。

でも、回り道ってほんとうに無駄な道なのかな?
最短距離って楽しいのかな?
自分で答えを見つけなければ「自分の言葉」も「自分の哲学」も生まれない。
それって生きててなんの充実感も成長もないのでは?
最短距離こそ、他人の作ったノウハウを倣うことこそ、時間の無駄なのでは??

赤信号を渡ってはじめてわかることがある

下手すりゃ自分の娘・息子くらいの年齢の若者たちに、じゃっかんキレ気味に返答しているわたしこそ愚かと言えるかもしれません。

でも、実際イライラモヤモヤしてしまったのですから仕方ありません。

わたしが自分の人生を振り返ってみたときは、先述のようにあほなことばっかりでした。

でも、やってきたことは遠回りだったかもしれませんが、失敗して痛い思いをして人に迷惑をかけまくってはじめて「こういうことか」と気づく、その痛みはどれだけ本を読むよりも人の話しを聞くよりも大きな学びであることは間違いありませんでした。

私はとんでもなくアンポンタンでダメ人間でしたけど、そんな自分と自分の経験を誇りに思っているのです。
だって自分で体験して自分で積み重ねて、それを材料に自分で自分の「哲学」と「言葉」を作ってきたんやもん。
変に賢くなくてよかったと思うほどです。

「赤信号は渡っちゃダメ」といわれて赤信号で止まることはとても賢いと思います。
でもそこでわたしは「でも渡ってみなわかれへんやん」と言って、赤信号のときに渡って車に轢かれて死にかけて「赤信号にはこういう意味があったんか〜そうか〜」と、身をもって知ってきた自負があります(あ、もちろんこれは例えですよ)。

あほでしょう?
考えたらわかるやろってなもんです。

でも、赤信号を渡ることにはメリットもあって、たまにそこにみんなが知らない抜け道を見つけたり、意外と自分には車を飛び越えられるくらいの跳躍力があることに気づけたり、お願いしたら車が止まってくれたり、車とぶつかって血まみれで吹っ飛ばされた先にめっちゃ男前おった、みたいなことが起きたりします(あ、犯罪は犯してません、念のため)。

ここでいう「赤信号の道」は「リスクをとる」ということ。
わたしの生き方は誰にもおすすめはしませんが、少なくともわたしは自分で「人体実験」してきて、自分で自分のやり方を模索してきたし、自分の言葉で自分の気持ちと経験を語ることができるようになりました。

とはいえ、そのためにたくさんの人の支えや助けがあって、迷惑ももちろんすごくかけたし、離れていった人も傷つけてしまった人もいます。
たくさんの言葉や助言に触れて刺激もされてきたし、当然のことながら自分だけの力で生きてこれたわけではありません。
でも、自分のなかに積み重ねるものだけは、なるべく「自分の経験」というフィルターを通してストックしてきた気がします。

「効率」を求めてはいけない気がする

公式を覚えるよりも必要なのは「自分で公式を導き出す力」やと思うのです。
なぜなら、覚えた公式は一定の数式でしか活用できないと思うから。
つまりは「横展開できない」スキル。
でも、その公式を自ら導き出すことができれば、その力は他の場面で答えを導くときにも横展開できるスキルだと思うのです。
時間はかかるかもしれないけど。

たとえば「絶対に受かる面接テクニック」を知るよりも「どんな人を人は(企業は)求めるのか」を自分で学ぶほうが価値があるというのはわかっていただけると思います。

でも「どんな人を人は求めるのか」を知ろうと思ったら、まず人間というものを知らなければいけないし、人の心を知らなければいけないし、社会を知らなければいけないし、なによりもまず自分自身を知らなければいけない。
とても時間がかかるし、失敗もたくさんするでしょう。

でも、そこでかけた時間はすごく尊くて、かけた以上の「おみやげ」があるんじゃないのかなと思うのです。
面接にパスするという小さなことだけじゃない、たくさんの実りがあるはずですよね。

少なくともわたしは、めちゃくちゃだった会社員時代、回り道ばかりして無駄に傷ついたり失敗したり失うものもありましたが、それ以上に「あたしの人生、まあまあええんちゃう?」と思えるくらいの「おみやげ」を手にした自覚があります。
回り道すればしただけ回収できる「おみやげ」は、確かにある気がするのです。

「マインドがケチな人」は「効率を求める人」とも言い換えることができるかもしれません。
でも「効率」を求めると大事なものを失う気がするのです。
たとえば「寛容さ」とか「思いやり」とか「愛」とか「レジリエンス」とか。
それって逆にめっちゃ損なのでは??

間違わずに最短時間でまっすぐ進んでたどり着いた先にはなにがあるんでしょうね。
そんなに急いで走らなければ間に合わない人生っていうのも、なんかアレです。
映画だってゲームだって、紆余曲折や乱高下があるからおもしろいはず。

あ、でもこれ、最短距離で進むことができなかった負け犬の遠吠えではないですからねっ!
だってこれからもきっととても「効率の悪い」人生をあえて歩む気がしているからなのです。


Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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