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スレンバンの大貫醫院

すわっジョホール王国か?という記事を見つけて、実際はスレンバンだったというオチなのですが。興味深かったので書き残しておきます。

明治の女医さんには、荻野吟子医師(第一号)を筆頭に矯風会や築地バンドに関わられた方が何人もいらっしゃり、先月から本多銓子医師(第四号)と岡見京子医師(第五号)についてのリサーチをしています。その過程で「マレー・ジョホール国スレンバン」にて大貫せんという女医さんが開業していたという資料(三﨑裕子:明治女医の基礎資料)を見つけました。

ジョホール国ですって?でもスレンバンはヌグリスンビラン州の州都。邦人ゴム栽培の開祖として知られる笠田直吉翁の本拠地としても有名な場所ですが、大正時代に女医さんがいらしたとはねえ。ということで。矯風会関連の調べ物はさておき、大貫せん医師について調べてみることとしました。

日本女医會雑誌第七十七號によれば、土田(旧姓)仙子医師が、すでにスレンバンで開業していた大貫公光医師と結婚して来馬されたのは大正2年12月のようです。大貫医師は明治44年11月発行の南洋画報にシンガポールの日英醫院に名前があり、附属養生園の院長として写真も出ていますので、まずシンガポール、それからスレンバンへ移って根を下ろしてから結婚されたのでしょう。ゴム園等も所有されていますから、けっこうやり手だったのかも。

仁丹のセールスマンこと岩橋美蔵著「馬来半島縦断記(大正6年)」では、スレンバン滞在中に大貫夫人が小岩井医学士夫妻と宿までみえたとか、大貫医師宅ですき焼きをしたとの記述があります。なんでも大貫医師がゴム山で仕留めた猪の仔だそうで、ほのぼのと鍋を囲んでいる様子が浮かびますね。

また、日本女医会誌第243号(2021年9月25日)には、アーカイブ欄に「英領馬来からの手紙➀」「マレー半島西部のスレンバン市で開業していた大貫せつ子会員からのレポート」という内容が紹介されています。旧姓内田と記載されており、誤植じゃないか?とも思ったのですが。大貫せつ子医師が大貫医師へ嫁いだのは大正8年11月とのこと。

それゆえ大貫仙子医師について再度よく調べてみたところ、なんと大正7年1月にお亡くなりになっていました。芙蓉(スレンバン)日本人墓地に埋葬されたのかも?と思いましたが。一時帰国中に日本でお亡くなりになったそうです。同墓地は1961年にKL日本人墓地に移葬されてしまい、跡地にはメソジスト系の学校が建っています。また光徳院という曹洞宗のお寺も大正の終わりに建立されており、林芙美子も戦時中に訪れています。

どちらの大貫夫人も明治末期の医術開業試験に合格しました。荻野吟子医師から数えて162番めと174番目です。大正時代にはお二人の他にもスラバヤの市川直太郎医師に嫁いだ市川(旧姓大岩)榮子医師や、赤い車の病院としてラングーンで有名になった福島(旧姓依田)松乃医師、バンコクの平和病院に赴任した神谷りう子医師など、調べてみたら多くの方がいらしたことを知って驚きましたが、それだけ多くの日本人が戦前の東南アジアには住んでいたのでしょうね。


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