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あなたのココロに緑の綺麗な地平線が観える

 一年と少し前、わたしがうつ病となった時に恩人に縁の深いおばあさんからかけてもらった言葉です

 正直なところ、ココロが汚いから病気になるんだ、と言われるのかなと思って久しぶりにそのおばあさんと遭う時にはビクビクとしていました

 ですのでとても意外な気がしたんです

 そうしてもうひとつ言われたのは、恩人とわたしとの縁がとても深いということです

 わたしにとって恩人がどういう存在かというと、そもそもその恩人がいなければわたしは娑婆に生まれてはいなかっただろう、という間柄です

 比喩やたとえとお思いになられるかもしれませんけれども、恩人はわたしの両親に向かって、

「ほんとうはもう子供を授からない約束なんだけれどもしばらくしたらもうひとりお腹におるよ」

と言ったそうです

 妊娠しているのを当てた、のではなくて、これから妊娠するよ、と言ったのだそうです

 それがどういう意味かは、わたしの比喩でもたとえでもないという言い回しから察していただければと思います

 そうしてその恩人は詩のような歌のような文章を遺してくれました

 わたしが恩人を知ることができるのは一枚だけ画像として持っているモノクロの火鉢にあたって微笑むそのおばあさんの写真と、完璧に韻を踏んだ芸術的な歌が刷られた同人誌のような薄い冊子とです

『愚かなわたしが筆を染め造りし歌であるけれど』

 文中の恩人のこの言葉がとても好きです

 比喩でもたとえでもなくわたしという人間を娑婆に出すことを‘決めた’恩人のその歌をわたしは子供の頃から恩人に縁の深いおばあさんの教え諭しとともに五臓六腑に叩き込まれ染み込ませて生きてきました

 それは当然ながらわたしの人生の道程として結果をもたらしあるいはその歌に基づいて行動し

 そうしてものごとを選ぶ際の根本基準として恩人が示したのが、

「損をする粗末な立場を探して回りなさい」

そういうものでした

 損する方を選べと

 わたし自身には自分で選択するような強い意思とその末路を得心する正しきココロはなかったと思います

 ただ、自己責任という言葉で責め立てられるとしたらそういう意味での落ちぶれた状態にはあるだろうと思います

 単なるワナビであって世に知られずどちらかというと『諸事雑事』でひとくくりにされるような介護と仕事とに従事しています

 けれども、ひとつの希望に満ちた言葉をわたしは知っているんです

『我が執筆は艱難辛苦を旨とす』

 これはわたしがその一冊のみで即座に尊敬の念を抱いた歴史作家の方のそのまえがきに記されていた言葉です
 この方は先の大戦で焚書に近い困難な執筆の境遇を実体験しておられますので、それこそ艱難辛苦とは比喩でもたとえでもないのだろうと思います

 その方をして言わしめた言葉

『我が執筆は艱難辛苦を旨とす』

 もちろん小説は創作活動ですからたとえば諜報小説を書こうとしたらスパイにならなければいけないわけでも異世界転生小説を書こうとしたら臨死体験が課せられるとかいうわけでは当然ないでしょうけれども

 けれども小説はそれを敢えてお読みくださる方にとってはほんとうのことです

 何か生きる途中での涙こぼしたい瞬間やはらわたが焦がれるような悔しい瞬間にそのココロをどうにかしたくてお読みくださる方にとってその瞬間は、主人公は現実以上のリアリティをもって、いいえ、ホンモノの人間としてお読みくださる方のココロに触れ言葉を発し行動しているはずです

 著者がそういう人間でないと書く資格がないということではなく

 小説を書き芸術をなさんとするのであれば書く以上は書いた以上は著者も現実世界でそうあろうと努力しようと

 己の小説を娑婆の我が身にフィードバックして生きてそうしてその結果をまた小説にフィードバックしてディストーションノイズのように増幅して鼓膜やみぞおちのあたりを振動で揺さぶろうとせんとして

 たとえワナビでも芸術家であろうと

 そのための艱難辛苦

 書くエネルギーの源泉として尽きることのない、まだこの下と強度があるのかという艱難辛苦

 艱難辛苦を楽しむことができれば

 楽が極まるはずだろうと誰に知られずとも書いていこうと思っております

※写真は神社の麓の小道の花に虻と緑の小さな虫がまつわっているところです
 恩人に縁の深いおばあさんはわたしのココロに緑の綺麗な地平線が観えるということと「景色を写真に撮りなさい」ということを言ってくれたので、その時から写真を撮るようになりました




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