「わかったこと」を実際の日々の暮らしの中で
取り入れて、「自分のもの」にすることの難しさに、直面している。
昨日のようなブログを書いたとて、
自分がいざ、パニックになると、本当に陸でおぼれているかのように
「藁」をつかもうとして、慌てふためく。
そのパニックの渦中にいる時
ついぞそのことに本人は気づくことなく
大真面目なのだから、困ったものだ。
そして慌てふためき、大事なひとから大事な時間を奪う。
心配をさせる。残念な気持ちにさせる。このループよ。
そんな昨日。
仮説を立ててみようと思ったことは
パニック時、「ニュートラルの状態」からどれくらい離れているのかを、自分の目で確かめられる「基準」があれば
「わ、今私やばい」が、見える化するのではないかということ。
私、「自分はもう抜けましたよ。もう分かりましたよ、じぶんを見つめましたよ。」とか言って、ぜんぜん変わってない。
いろんな知識を身につけて、知って、自分の暮らしの中で「気がつく」ことで自分は変わったとかのたまっておる。
いーや、君。何も変わっていないんだよ。
なんなら、論理武装して、エゴはするすると逃げるのが上手になっただけだ。
またやってるだけだよ、自分を生きないための言い訳にすぎない。
それがちゃんと「結果」として見えてこなければ、何も理解してないと同じことだ。
ニュートラルの基準から離れているかどうか。
まず、食生活について、記録をつけることから始めようと思います。