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神様のような人。ひとみちゃん。

ひとみちゃんにはじめて会った時、私はひどい混乱の中にいたと思う。
混乱の全てに蓋をして、自己欺瞞の仮面をつけて暮らしていた。

2018年。東京から群馬に移住。
自分に最大の嘘をついて流れ流れて高山村に居た。嘘のことなど誰にも話をしていなかったし自分もそれをひた隠していたから、それが嘘だということすら忘れて仮面の自分が板につき、嘘ものの笑顔を浮かべていた。私はその時笑っていたと自覚していたけれど、「この子は笑っていない」とひとみちゃんは、すぐそのことに気がついているようだった。

彼女は不思議な力を持っていて、彼女が知り得ないような事柄であっても、見える。
なぜか彼女は知っていた。そして私の嘘を見抜いていた。
その時は私はそんな彼女に対し「不思議だな」と思っていた。しかし意識下では、とにかくその奥にある彼女の「切羽詰まったもの」が見え、「怖い。」直感的にそう感じていた。私のことをどうか見ないでほしい。触らないでほしい。意識下で「解体される」そう感じたことを感覚として覚えている。

時を経て翌年、私は東京でひとみちゃんに会うことになる。
2019年。秋。失恋をして自我が崩壊し、積み上げた人生がボッキリ折れて憔悴しきったさきちゃんは、東京でひとみちゃんに会う予定だった。尸のようになった彼女を見兼ねて、私は車で吉祥寺駅に送り届けた。

私はひとみちゃんに会うつもりではなかったはずなのだが、彼女は私の「本体=魂」がひとみちゃんに会いたがっていることを見抜いていた。だから、私が無意識にずるい手段で、さきちゃんを口実にひとみちゃんに会いたいと遠回しに伝えてきたことに対して大層怒っていた。「人のエネルギーを、奪うな。」と。


私はひとみちゃんに会うはずではなかった。むしろ会わないで帰ろうとしていたのだ。私はそう「意識していた」と記憶している。
会うはずではなかった。けれど、私の無意識下で、私はひとみちゃんに会いたがっていた・・・・・?
今、あの時の記憶を掘り下げると、全く不思議な話だけれど、そう。私は会いたがっていた。ひとみちゃんに。ただただ助けてほしかった。もうどうしたらいいのか、わからなかったから。

私は、その時巡り合った人たちから教えてもらった、色々なスピリチュアルな理論を握りしめていて、それが確かなものだと信じていて、(信じないとやっていられなかった)それらの理論展開とは全く違うことを言う(そこまで話をしたこともないのに、私が勝手にそう思い込んでいた)ひとみちゃんに対し、ひとみちゃんの言うことは間違っている。そして、怪しい、と心の中で攻撃していた。自分が学んだことを盲信していたからだ。

それも不思議な話だ。彼女から攻撃されたわけでもないのに忌み嫌っていた。あまつさえも、他に彼女を訝しがる人と同調して彼女に対して、ひとみちゃんは怪しい、さきちゃんがおかしくなったのもひとみちゃんの影響であると思い込んでいた。(・・・何故?)
しかし、そこまでに出会ったいろんなスピリチュアルな理論では、私が抱えていた問題、課題に対して埒が開かないと、意識の下で、私は知っていた。だって根拠がないのだもの。そして現状が全く改善しないという事実。しかし私はそれを見ないふりをしていた。感謝しても、祈っても、手放しても、感情を解放しても、私の大元にある「課題解決」の手立ては迷宮入りだった。

ひとみちゃんは、吉祥寺駅の高架下で私を怒鳴った。
身長差20センチくらいあるだろうか。彼女は小さな身体で私を怒鳴った。華奢な女の子が吉祥寺駅の高架下で怒鳴っている。そのエネルギーの大きさに私は立ち尽くし、面食らったようにその言葉を呆然と聞いた。

彼女のそれは、私の中の「邪」に対して、放った言葉だった。
あの時はもちろん私はそんなことを思いもしなかった。とにかく面食らって居たたまれなくて無意味な微笑みを浮かべるのが精一杯だった。引き攣った微笑みを浮かべながら、ただこのときも、意識の下では彼女を疎ましく思っていただけだ。


意識下のことというのは不思議なもので、意識しようとすると、炙り出されてくるものだ。これも彼女から教わった。不意に誰かに何かを指摘された時。咄嗟に反発したくなるのは、何故?そこに「それ」があるからだ。俗にいう「痛いことを言われた」というやつだ。何もなかったら、痛みなどない。ただびっくりして「それはどういうことですか?」と純粋な気持ちで相手に問うのが何もないところからの質問だろう。この時その意識下には「何もない」。しかし、咄嗟に反発したり、無性に腹が立ったり、泣いたり、苦しくなったり、言い訳の如く無性に喋り出したくなるのはなぜか。または、「見ないように」その場を離れたくなるのはなぜか。意識を逸らして、忘れようとするのなぜか。誤魔化して相手の意図と全く別の返答をするのはなぜか。
そこに紛れもない「それ」があるからだ。
「それ」が「ある」時。それがあると認め、その感覚を知れば、意識下に何かがあるということに気がつける。そしてそこに焦点を当て根気よく自分で探れば、そこにあるものに行き着けるはずだ。
それがあることを認めることが、本当に苦しい作業になるのだが。

あれから今まで、彼女はいつも変わらずに、「私本体=私の魂」を護るために私が纏った邪に対して炎をもって、接してくれる。本当のあなたはそうじゃないでしょう?本体のあなたに取り憑いているものよ、去れ。魂のあなたよ、どうか目を覚ませ、と。

しかし、本体の私と、邪の私は、生きた細胞にがん細胞が癒着するように食い込んでいるので、私自身はそれを一つの自分だと認識している。だから、ひとみちゃんが私に対して放つ言葉は自分の中に棲みついた「邪」が暴れ出してとても苦しくなるのだった。彼女が私の存在の全てを全力で否定しているように感じるからだ。本当はその逆で、私のがん細胞を焼き尽くそうとして彼女が身体を張ってくれているにも関わらず。彼女にしてみれば、理不尽な話だ。愛を持って対峙すればするほど、相手からは思い切り抵抗され、理不尽で完膚なきまで叩きのめそうというような攻撃を受ける。


ひとみちゃんのそれは果てしない愛だ。私が内心に抱える彼女への懐疑心がいつ暴発し、攻撃するかもわからないのに。愛を持ち続け、灯明を照らし続ける。それすらも全てお見通し、物理的に攻撃されていなくとも、心の中で相手に思い切り攻撃を受けていて、実際にダメージも喰らっているのだ。それでも訴え続ける。お前の中に棲みつく邪よ、どうか出ていってくれ、と。

そんなことはつゆ知らず、私は彼女から「存在を責められている」「あなたの生き方は間違っている」と、私自身【全てを否定された気がして】、たじろぎ、抵抗し、彼女に対して攻撃したくなる。なんの関係性もないあなたになぜそんな事を言われなければならないのだ。私は抵抗し続けた。
しかし、ひるがえってひとみちゃんはずっと前から私と友達になるということを知っていた。・・・・友達?


おそらくここで多くの人が彼女との関係性において陥りやすいであろう傾向として「馬鹿にされているのか?」という己のプライドによる真理への道の遮りがあると思う。彼女が生来持ち合わせている、エネルギーが視えるという能力、人より愛の偏差値が高いと言う能力がある、という理解と認知がなかったら、そうなるのは当然と言えば当然なのだが、ひとみちゃんが「相手の未来が視えて」「こうした方がこの人がもっと幸せな未来だ」と言うことに対して、人は「は?あなたの誇大妄想、あなたのコントロールによるものでしょう?」と、過去の権力によって受けた傷によるトラウマで、そのように解釈してしまいがちだ。

私は、私=自分のがん細胞とは私そのものであると認識し、大事に共存しなければならないと、壮大に勘違いしていた。また、そのがん細胞を作り出した自分のマインドのせいにしていたし、そのマインドを排除することはすなわち自己否定であり排除である=「世界の分離」であると認識していた。その苦しい状態のまま、どうしたらいいのか、手段もわからず、思考を停止させたままであるにもかかわらず。思考停止という罠に、とにかくずっと苦しめられ足掻き、溺れていたにもかかわらず。

ひとみちゃんは、言う。

「その邪、がん細胞の自分こそが、自分を不幸にする種で在ったことに気づけなかったのね。
でも本当はわかっていたでしょう?
貴方が自分で書いている通り、「見ようとしなかった」だけ。
自分の中に在る自分を不幸にする種も、自分を新しい未来に導く可能性の種も。
貴方達の中にはいつも在って、本当は誰にでも「見ようとすれば見える」のに。
誰も意識的に「見たくないから、見ようとしないだけ」。
私が観ているのは、そういう世界。
無いものを観ているのではなく、本当は「在る物語」を観ているだけ。」

あれから4年。

私は「在る森のはなし」にアサインされ、今ここにいる。森の登場人物の1人として。

ーーーーーーーーーー私の目に映る、「ひとみちゃん」という人

【地球ミッションを生きている】
この豊かで美しい微笑みの星「地球」。この地球が、少しでも長生きできるように見守る。それが彼女のミッションだという。そのためにあらゆる布陣を敷いている。「在る森のはなし」も、その一環であるが、私がアサインされたのもこの地球ミッションを彼女が実践するにあたって、大いに彼女のミッションの力になるだろうという見通しの元だ。だから全ての人に彼女から声をかけるわけではないらしい。物理的力のない彼女が全ての人を担当したら、すぐに力尽きてしまうから。先に書いたように攻撃に遭うこともダメージの大きな一因。彼女の小さな声を聞きくことができる人、今世の相手の状況、成長具合、その後の影響力なども鑑みて、彼女が担当をしているらしい。

【まず、彼女は呼吸をしている気配がない】
よくよく意識して観察してみると、丁寧で規則的。まっすぐな呼吸。
まるで 全ての生き物に対して、配慮をしてしているような呼吸をしている。
それは、どんな地図にも載っていない、森の奥の未踏の湖の水面のような静けさだ。

【いつも静かに、世界を眺めている】
自我が感じられない。「わがまま」と言う言葉がまるで似合わない、というかそれは「観念」として存在しない。

【人の行く道を照らしている】
一人のひとに対して。その魂が行く道を静かに照らしている。どう生きたら、この人の人生がひらけるか、静かに観察している。その人の光を、ここだ、というところに狙いを定めている。

【地球は、おそらくすごく静か】
彼女は、地球をダウンロードしているんだと思う。スピリチュアルな言い方をしたら、彼女は、地球をチャネリングしている。地球そのものの波長で生きている。地球はおそらくすごく静かで、耳を澄ませないと本質は見えないんだと思う。ひとみちゃんのことをよく見るためには、こちらが静かに耳を澄ませ、足音をさせずにそおっと近づかないと、その音をその香りを、その気配を感じることはできない。真理を観ることはできない。

【綺麗好きであることもまたそのために】
自然は調和。自然はおそらく、理があって、そこに存在してる。完全なる調和があって、そこにある。不協和音も存在し、たゆたう事象も自然そのものであるが、たゆたう、の、その先、不協和音、の、先に、どんどん調和して、尖って研ぎ澄まされ、正される場所がある気がする。その先端が神であって、自然であって、静けさであって凪である気がする。
跳ね散らばりぶつかり排除され排除し、分離し、弾けあった=たゆたう、のその先にある静けさ。もしくは、たゆたうの「その間(狭間)」にある、目を凝らさないと見えない、静けさ。綺麗好きで静かであることは、おそらくその神の領域に位置しているから。
人を招き入れる彼女のその部屋は、招かれる人の体調を考慮して清潔さが保たれている。都会でくたびれた人間が森林に入りひととき過ごすとゆったりと身体が休まるように、ひとみちゃんの家で数時間過ごすだけで、人は疲れを落とし、リラックスしてその夜はマッサージを受けた夜のように身体の力を抜いて、ぐっすりとした眠りにつけるのだった。人が、五感を取り戻し、心乱すことなくそこに佇み、ゆったり自分の時間と存在に静かに寛ぎ、誰かのためにと想い馳せることを大切に生きていくようになったら、地球はきっと長生きできるだろう。

【絶対に手を離さないという意味 あるいは 冷静で合理的という愛】
「絶対にあなたの手を離さない。」とひとみちゃんは、ある時私にそう言ってくれた。
その意味を、あれから少し経った今、考えてみている。
仕事でも、人間関係でも、途中で苦しくなって辛くなった時。パニックを起こして思考回路が働かなくなった時。私はあらゆる全てのものから手を離してきた。苦しい。自分の安全確保ができない。そう思い込んで、咄嗟に逃げまどう。咄嗟に目をそらす。咄嗟に忘却する。もしくは、攻撃的になって相手に対して敵意をむき出しにする。またはあらゆるものに依存し、縋り、見苦しさを顧みずに赦しを乞い、媚びる。もちろんこれらは「意識下」で行われることが多いが確かにここに「ある」。

ひとみちゃんは、合理的で理性的。相手を一番に思い遣って、相手の未来の最も美しい先、楽しい姿を観ている。第四の目をもって、相手の美しい未来を見通している。その先に、地球上全ての生き物が幸せに生きる物語を描いている。そこを逆算して、今この瞬間において、最大に幸せな状態を常に辿ろうとしている。

私は全てのことに言い訳をして、逃げてきた。特に、高校生頃から自分の感覚の過敏さと、社会に合わせられない独自性とで、日々生きづらさを感じていた。社会人になって、自立しなくてはいけないとなった時、理解できない社会のルールなどにもまれ、それでも生きていかなくてはならない日々の中、その過敏さに自ら気づかないようお酒に逃げた。お酒を飲んだらその感覚は麻痺して、少し楽になれたから。忘れられるから。気がついたら、お酒を飲まないと怖くて眠れなくなった。お酒に逃げるだけではない。私は、【本来私が私たるためにやるべきこと】から逃げるためにあらゆるものを優先させてきた。目の前の人の相談事、トラブル、家族の病気、交友関係、意味のないおしゃべり、馬鹿騒ぎ、意味のない飲み会、必要性のない買い物、どこに行っても空洞の中にいるかのような旅、男からの誘惑。闇雲に自分を擦り減らし消費することに躍起になった。全てのことを並列にして、目の前にきたものから対応しようとしていたら必然的に時間は無くなるし、エネルギーは消耗し続ける。なんのために生きているのか、何をしに私は今、息をしているのか、優先順位はめちゃくちゃで、それを冷静にきちんと順序立て、取捨選択し、片付けることができないことを、私は自分の努力が足りないからだ、という仮説を元にして努力を冷静に積み重ねたことが1度もなかったように思う。ただただパニック、盲目的にその目の前に流れてくる本来やらなくていいことに時間を割いて、本当にやるべきことに取り組んで工夫をすることをしてこなかった。冷静に状況を判断できないせいで、とにかくいつもしんどくて苦しくて、息ができなくて、どうにかしなくてはと思うだけで、何も進まない。同じ状況を繰り返しながら思考停止した時間だけを過ごしていた。

不摂生が祟って身体を壊した後、これではいけない、本当にやりたいものをやろう。と写真を学ぼうとした。それでもその先にあった学びの場でも、本来勉強しようとしていた写真よりも、そこにある不和、そこにある心地悪さを解消させようとそれだけに奔走しそれまでと同じように優先順位を忘れた。

私が他者へ、光を見出す時。それは、自分が許されるための縋りつきによるものだったのかもしれないと、いまにして思う。
媚び、へつらいでしかなかった。私が生まれながらにして握りしめた「相手にどうか笑っていてほしい」という願いは、表面上美しく見えるけれど、いつも自分が身の危険に晒されているという勘違いの元、「相手が笑っている間は安全だ」という思い込みが癒着した願いだった。自らの安全確保のための相手へのコントロール。それが本当の愛に絡みついて邪魔をしていた。

ひとみちゃんにはこの一連のことは全て見通されていて、ある時「まるちゃんは、生きることから逃げてきただけ。自分を生きることへの恐怖が、まるちゃんの症状よ」と言われた。
私の生きてきた道を、どうしてそこまでわかると言うのだろうか?どこかで見ていたのだろうか。


【二人目の神様】
こんな風に、一番に私のことを思い遣り考えてくれる人に、私はこれまでの人生で2人、出会った。2人に共通するのは「なんで、こんなに、私のために尽くしてくれるのだろう?」ということだ。

2013年ころのこと。1人目の神様に出会った時、その人は特にまだ私と仲良くもないのに、とにかく手放しで本当に嬉しそうにキラキラの笑顔で思い切り私に駆け寄ってきた。笑いかけてくる彼女が怖かった。何故私をそんなに大切そうにしてくるの?と。あなたのことが大好き!ありがとう!あなたに会いたかった!!やっと会えた。愛してるよ、えり。って言ってくる人(しかも同性)なんて、出会ったことがなかったから。
その頃私はサラリーマンで、ひたすらに売り上げの目標数字を追いかけ、ひたすらに締め切りに追われる日々の中にいた。男性のような口調で喋り、タバコをふかしながら後輩に暴言を吐き、深夜の居酒屋でストレスを発散し、締めはラーメン。毎日お酒の抜けない頭で朝を迎え、電車に駆け込む。そんな日々。利害関係の中でしか人と一緒にいるということはなかったように思うまたは、すべてに蓋をして馬鹿騒ぎするだけの人間関係。なぜ生きるか、何のために働くか、などという命題を考える隙なく日々が流れていた。だから、突然現れたその人が発するそれが愛であるということなど、見えるはずもなく、何か彼女の策略なのではないかと疑った。そうして私は、彼女のことが友人として好きかどうかもわからないまま、ただ戸惑うだけだった。彼女は壊死した私の女性性をも本当に丁寧に、一つずつ解いてくれたのだが、解いた先に、私は1人目の結婚相手と離婚する結果を迎える。とにかく私は混乱し、それをその神様のせいにし、その人の愛を利用し、ただ依存し、自分の不機嫌をぶつけまくって、攻撃しまくった。それでもなお、あなたのことが好きだよ。愛しているよ。一緒に生きていこう。と言ってくる彼女の事が信じられなくて、怖くて、最後は逃げ出してしまったのだった。逃げ出した先では、私はますます破壊的になり、暴力的に支離滅裂で嘘に嘘を重ね、やるべきことからとにかく逃げ出し、自分を見失なう未来に爆進していったのだった。

あれから10年近い年月が経った今、1人目の神様はあまりに現実からかけ離れた人で、尚且つ私はアルコール依存の一歩手前もしくはアルコール依存だったので、あれは私の妄想もしくは夢だったのかもとさえ思っていた。それでも彼女を信じられなかったこと、愛を受けとれなかったことは、心の中にいつも苦しさを伴う記憶として残っていた。

今度は、疑いようもない形でこれでもか、と光を放つ神様に出会った。それが、ひとみちゃん。今度はアルコールが抜けた身体で出会ったので、今度は正気で直視している。

彼女は1人目の神様と同様に、手放しで私を愛し、共に生きると決めた人の手を、絶対に離さない。
相手が過去の幻に怯え、混乱し、怒り、どんなに激しい荒波を立てようとも、じっと耐えて相手をよく観察し、対応を考える。そうする心の奥には、相手の未来の美しい、在るべき姿が観えているからできること。自分を崩さずに律されていて、美しく佇む。自分の過去の幻に巻き取られていたら、相手の姿を導くことはできない。それを知り、自らの身体を鍛錬し、幸せでいる。徹底してそれができている。


【身体が弱いと本人は言うけれど】
手足がとにかく細くて、でも体幹がものすごく強い。どうやってできているのだろう?と不思議になる。身体が弱いと本人は言うけれど私からしたら、強い、としか思えない。

今年のお正月。毎日みんながひとみちゃんちに出入りしていた。
ひとみちゃんは毎日料理を作ってくれて、前の日絶対疲れているのに一体その時間はいつ作ったの?と言うレベルのご飯。そして家の状態もいつも綺麗で一体どうやってそれを維持しているの?という教会のような清潔さ。いつも、私は、ひとみちゃんを守らなくちゃ。と口で言うけれど心の奥底では、「守れない、こんなに強い人をどうやって!?」と思っていた気がする。

彼女は、人を救うために、自分が真っ直ぐ立っていなかったら、助けられないということを知っているのだ。律する力、律する心が、竹のように強い。そしてしなやかである。掃除をするときは踊っているわよ。と風のようにささやく。

【人間としての傷を凌駕したかのような】
ひとみちゃん自身の身に起きてきたこと。それを話してくれることもあるけれど、「出来事」と、「ひとみちゃん」の間には、距離があって、もうそれはひとみちゃんのものではないというか、ただの「例題」を話しているかのような、誰か、別の人の経験談を例え話として持ってきているかのような「彼女の人ごとのような感覚」だ。
全てその出来事は成仏していて、ただただそこから編み出された「教訓」のためだけに話をされるだけだ。痛みの一切ない「経験則」「寓話」でしかない。

【涙が出てくるのはなぜ】
たくさんのキャンドルを灯して部屋に迎えてくれた時のこと。
私の呼吸を、整えてくれいい香りのお香を点けてくれ、いい香りのハンドクリームでマッサージを教えてくれる。私が、いつも焦り、自分を見失い、自分を守ることしか考えられなくなった時。あなたは、何をしに生まれてきたのですか?と、問う。問われた私は、不思議なことに呼吸が深まり身体が緩み、涙が溢れてくる。こんなに呼吸が深くなったことはあったか。背骨と肺に、深く深く空気が入るのを感じる。そして、全身が心地よく緩む。

【トラウマを成仏させる】
絶対に、彼女は彼女の感情の都合で怒ることはない。
私にとってそれが必要だから怒ったふりをすることは、あるのだが。
私は、過去を投影し、彼女に怯える。彼女に気に入られようと、私は振る舞う。
そこに意味がないことを、毎回、毎回、一つずつ、解説してくれる。
わざと、そこを直視できるような出来事を用意してくれ、そこをもう一度通るように設定してくれる。そこを通った時、私は、恐怖で呼吸ができなくなる。
身体が萎縮して、視界が狭まって、声が出なくなる。
そしてそこを直視しないように、目を逸らしながら違う道を全速力で走り抜けようとする。
意味のない笑いを浮かべて、取り繕いながら、全力で走り抜けようとする。
その瞬間の私の首根っこを掴んで、「待ちなさい」と言ってくれる。
「ここにそれがある」ということを、直視させてくれる。
直視したところで、私は、そう、例えていうなら、夜道で、人影だと思っていたものが、ビニール袋だったということに気づく、という体験をする。滑稽な取り繕い。恥ずかしくて、死にたくなる。
そして、その恐怖がゆえに、私は自分の中に狡く、醜く、人を貶めるような発言をする自分を発見する。あいつのせいでこうなっているのだ、あいつがいるから私がこんなふうに辛い思いをしているのだ、と、信じられないほどの醜い自分に焦点が合う。
自分が助かるために、人を悪者にするという悪癖がある。
助かる?何から・・・・・。

おそらく全ては、私が生まれてここまで生きて、積み上げてきた罪に対しての罪悪感だ。
私が自分を生きてこなかったから。自分の好きなことを追いかけなかったから。そのスキルを必死に努力して身につけるということから逃げてきたから。満たされない。空虚。嫉妬。渇望。自分のことを信じて、努力してこなかった。それなのにそれができない、それがどうしてもできないと、すり替えてその代わりに人を欺いて、誰かがそこに連れていってくれるはずだと人の時間を奪うだけ奪って、関係性も大事にせず、相手の機嫌ばかりが気になって、相手が笑っていたら自分の身が安全だからと相手が笑うようにコメディアンのように振る舞う。自分の容姿などを自虐的に使って相手を笑わせる。相手が笑ったら満足してそうしてその場を荒らすだけ荒らして立ち去る、というやり口を繰り返してきた。一つ一つの行いが、全て自分のため、自分の安全のため、それだけでしか、なかった。

ひとみちゃんは、おそらくそれが全て反対だ。
人のために、生き、自分の魂が汚れるようなことは一切しないで生きてきた。
自分の信じる意思に反することはしないで生きてきたはず。
私たちといるときはお酒も飲まず、遅寝早起き、常に真剣に生き、常に全ての時間を誰かの悩みを聞いていて、悩みに答えていて、猛烈に仕事をしていて、絶対に締め切りを破らない。頭をフルスピードで働かせ、切れ味抜群の意見を言って、企画を立てて、仕事をこなす。メンバーを采配する。笑顔を絶やさずに、静かに息をして、暴飲暴食をせずに、在る森のメンバーに食べ物を作ったり、分けたりしてくれる。絶対に人の悪口を言わない。愚痴を言わない。かといってストレスを溜めない。嫌な顔もしない。かといって人間離れしているわけでもなく、自分の中にある「邪」にも対峙し、それをみんなに報告してくれる。在る森のメンバーの行く末を見かねて、東京から移住してきてしまうほどに、在る森のメンバーのことを愛している。自然由来のものはからだにいいのもわかっているけれど。と、オーガニックなものに傾倒しすぎず、ジャンクなものも食べる。その経済性にまで想い馳せていることを知ったとき私は本当に脱力した。彼女のどこまでも広く、深く、想い馳せる能力に、自分の身体の心配をしすぎたり、過去の自らの怒りや憎しみによる反動で身体を壊し、化学物質に反応し忌み嫌っていた自分を恥じた。

そんな彼女はコンサルタントでもなく、カウンセラーでもなく、指導者でもなく、スピリチュアルリーダーでもなく、グルでもなく、ただなんでもないけれど、とにかくめちゃくちゃ仕事ができ、愛の偏差値が高く、人のために生きる、「こんな神様みたいな人って実際に存在するんですね」と言われがちな、アスリートのように全てのことに対していつも探求し、研究し、仮説を立て、立証し、再構築し、幸せな未来に対して、常に理論を構築し続ける、努力家でチョコレートが大好きな私の大切な友達だ。



可愛い人。


私は、自分ができることも逃げてきた。それを見ないふりして、磨かずに忘れたふりをしてきた。いつも一生懸命生きることができなかった。口だけ、やります。頑張ります。「しんどい」から逃げて、向き合わなくてはいけないタイミングで、誘惑してくるものに対して誘惑を受け、流れるままに、ただ、何も考えずに、自分が楽だと思う方に、ずっと流されて生きてきた。思考を練り、成長させることもせずに。

そして咄嗟に自分の身を守る発言をする。自分が相手に気に入られようと、相手に対して相手が心地よくなるようなことを言い振る舞う。
その責任を負わずにすぐにどこかにいなくなるから、相手は怒る。
相手がいい気持ちになるようにと、できもしないことを約束する。その責任を負わなかったり、忘れたりするから信用がない。自分がその後に力尽きて、やるべきことをできなくなる力量も測れないくせに、請け負おうとする。媚びへつらって相手に接している。相手を味方につけるような行動ばかりする。気に入られようと、助けてもらおうと、いつだって必死だった。そうすることで自分を失い自分という存在は不在で、誰かのために生きると、絵空事ばかり。軽口を叩いて生きてきた。そうして、自作自演の状況下、できない自分を仕立て上げて、不幸なフリして、自分を責めて、自分はできない人間だ、と努力することからも逃げ、ただそこに座り込んでいた。そうすると人は私に声をかけてくる。「大丈夫?そのままのまるちゃんで大丈夫だよ」と。さあ、これで「自分を生きない」永遠のループの出来上がり。

このようにして、私は私に関わってくださる人から、常に奪って生きてきたのだった。
今、そのことに気がつき、私はなんのために生きているのだと感じる。生きてきた意味はあったか?空虚の中で生きていただけだった。居心地が悪い、身体の様子がおかしい、気持ち悪い、動けない。と、そこにばかり目を向けて、必死でその不調と居心地の悪さを整えることで精一杯だった。もういいかげんに、自分を生きる道をはじめなくちゃと思う。
でも一体どうやって?今まで漫画や物語に出てくる、地道な職人気質のヒーローヒロインに憧れることが多かった。これもまたきっと、眩しい、あのような人になりたいと思う私の「ゴールデンシャドー」なのだろう。一つ一つの工夫と努力。一歩一歩自分の頭で考え、成長の楽しみを知り、生きられたら幸せだと思う。そう。オリンピック選手やあのヒーロー、そしてひとみちゃんは千里の道を本当に小さな一歩ずつ、自分の感覚と、先人の智慧を頼りに進んでいるのだ。
彼女たちの背中を追いながら彼女のようになり、彼女のように生きたい。その上に自分のオリジナリティを生み出す。それを原動力に。

自分が生きる道は自分で作るしかない。失敗したら、自分で分析して次に生かすしかない。
そうして私の生きる道を全うした先に、人助けができるのだと思う。

目の前にいる大好きな相手が、ずっと笑顔でいられるように
まだ見ぬ未来の地球がずっと幸せに存続できるように
出会ってきた人たちが、ずっと幸せでいられるように
パニックに逃げず、冷静に合理的に相手の未来の笑顔を目指して。
自分の創意工夫で生きていく。

私があのとき、自分の苦しみと癒着した眼で見ていた、あの人のあの美しい姿は、きっと私の幻想ではなかったはずだ。
あの人の未来が見えていたはずなんだ。
それを立証するために、私は自分の命を捧げてみようと思う。



大好きな家族。

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