見出し画像

善き羊飼いの教会 #2-3 火曜日


〈幽霊屋敷隣家〉



     * * *

「立派な楠(くすのき)ですねえ」
 畑の隅に屈んでいた籠をもつ老婦人に声をかけ、自身の存在に気づいてもらえたのを確認してから、スルガは頭を下げた。
「樹齢百年以上ですよね?」
 老婦人は訝しげな表情でしばしスルガを観察すると、
「桁が違う」素っ気なく答えて立ちあがり、ゆっくり歩み寄った。
「もしよろしければ、写真を撮らせていただきたいのですが」
「わたしをかい?」
「え? いえ、そうではなく……」
「冗談だよ」鼻を鳴らして足をとめ、老婦人は畑から少し離れたところに立っている巨大な楠を見あげた。「好きなだけ撮って、好きなだけまわりな」
「まわる? まわるとは」
「楠のまわりに決まってるだろう。なにいってんだい、あんた。ここになにしにきたの」
「失礼しました、ぼくは――」上着のポケットに手を入れて、名刺入れを取りだす。
 スルガが訪れた場所は、幽霊屋敷と呼ばれる廃屋から東へ百メートルほど進んだところに建つ隣家で、木造の平屋の前には手入れされた畑が広がっており、辺りは植物と土のにおいと野鳥の鳴き声で満ちていた。
「お隣りの空き家の調査にきたんです。スルガといいます。お隣りには以前、文倉さんというかたが住んでいたのですよね?」
「不動産の人かい」
 スルガは首を振って名刺を差しだす。老婦人はちらと名刺に目を向けたが、受け取ろうとしなかった。
「不動産ではなく、科捜研技官です」
「なんだって?」
「科捜研技官です。科捜研といっても、ぼくが属しているのは民間企業ですので、扱うのは――」
「あぁあ。科捜研ね。科捜研ってあれだろう? テレビでやってるやつだろう?」老婦人の表情が若干和らぎ、口調が優しくなる。「誰だったかねぇ、あの女の人。たまに見るよ。サスペンスのやつだね」
「え、えぇっと……」好反応を逃さないようにとスルガは頭を働かせて、老婦人が口にした言葉を素早く解析し、返すべき言葉を模索した。「木曜日の夜に放送していたシリーズもののドラマのことですよね。でしたらぼくも見てましたよ。主演の女優さんが好きなので、女優さん目あてで見ていたところもありますが」
「綺麗だもんねぇ、あの女の人」
 老婦人は首を縦に振った。正解だったようだ。
「はあ。ですね。よく出演していますね、サスペンスドラマに」
「そうそう、サスペンスのやつ」
 老婦人の表情はさらに和らいだ。熱心なドラマウォッチャーとはいえないが、科捜研を扱ったドラマに好印象を抱いていたことが、警戒を緩めてくれたらしかった。
「字だけを見て、誰が書いたのか当てたりするんだよね」
「えぇ、まあ。サンプルがあれば、ですけれども。筆跡を比較して書いた人物を識別するといったことであれば、うちの研究所でも――」
「できるんだ? たとえばわたしが古い手紙や書類なんかを渡して、調べてくれってお願いしたらどうなんだい?」
「筆跡鑑定のご依頼であれば、もちろんお引き受けしますよ」
 スルガは再度名刺を差しだしたが、老婦人は名刺に目を向けようともしなかった。関心がありそうな反応をしてくれるが、依頼しようとまでは考えていないと解釈し、スルガは名刺をさげつつ、それてしまった話題を引き戻す。
「いまは空き家になっている、お隣りの文倉さん宅の調査で訪れたのですが、こちらの庭に立つ楠があまりに荘厳で目を惹かれたものですから、つい、足が向きまして。じっくり拝見したくて、お声をかけさせていただいたんです」
 本当は楠に興味などもっていなかった。情報収集目的で訪ねた隣家の住人へかける〝つかみのひとこと〟として、楠を利用しただけである。
「じゃあ、まわる目的できたんじゃないんだね」
「まわる?」
「だから、大楠のまわりをだよ。よく訪ねてくるんだよ、楠のまわりをまわらせてくれって人が。それより、どうしていまごろになって文倉さん家を調べてるんだい? 亡くなってから十年以上経ってるだろう?」
「そのようですね」
 文倉家に入った際、室内で目にした壁掛けのカレンダーが正しく使用されていたのであれば、十四年と三ヶ月前から文倉家の時間はとまっている。
「まさか一家心中は間違いだったなんていうんじゃないだろうね。宗教の教義っていうんだっけ。そのいいつけに従って入水したって、刑事さんはいってたよ」
「え? すみません。一家心中……入水ですか?」
「そうだよ、深角町の治水ダムに、家族で車ごと」
「ち、ちょっと待ってください」老婦人の口から語られる情報の整理に結構な時間を要してしまう。「えぇっと、話の中にでてきた宗教というのは、善き羊飼いの信徒という、宗教団体のことですよね?」
「そう。羊飼い、の、なんとかいう宗教」
 善き羊飼いの信徒については、昨日研究所に戻ってから、柊にネット検索を頼み、情報を集めてもらっていた。善き羊飼いの信徒は、慈行(じあん)という名の人物が創始した宗教団体で、本拠地は関西にある。教団の支部と教会は全国に多数あり、もっとも近い教会の住所は、深角町だったようにスルガは記憶している――治水ダムのある場所と同じ深角町である。
 調べた限りにおいては、教団に関する評判は悪くなかった。地域貢献や地域交流を図ったイベントを多々実施しており、年に二回、関西本部で盛大な祭りを開催していることもあってか、好意的な意見が多く目についた。教団への遺贈で遺族らと揉めた記録もあるにはあったのだが、ヒットした最近のトラブルは十年以上前のものだった。とはいえ、『教会での儀式・勤行は頻繁に行われている』、『司祭を神父と呼ぶ』、『教義は絶対』といったネットで得た情報から推測するに、教団が有する教義への原理主義的側面が文倉家の選択した入水に多大な影響を与えたのではないかと考え、スルガは顎に手を添えて眉をひそめる。
「なんとかいう宗教について詳しく知りたいのなら、深角町の緒方山のほうに行けばいいよ。山の中腹に教会が建ってるからさ。地図をもってこようか」
「いえ、大丈夫です」
「そう?」
「場所ならわかると思います」
「あ、そう。どうしてまたあんたは、文倉さん家を調べてるんだい? なんとかいう宗教と関係のある話かい?」
「文倉さん一家や、家そのものについての調査ではないんです。不確かではありますが、お隣に住居侵入した若者グループがいたようでして――」
「住居侵入?」スルガがいい終える前に老婦人は口を挟み、眉根を寄せた。「泥棒の調査かい。まあ、あそこは長いこと空家だし、家の中の家具とかはそのままにしてるみたいだからねぇ。金目のものを盗もうと考えて忍びこむ奴がいてもおかしくないよ」
「以前にもそういうことがあったのですか」
「いいや」
「若者たちが勝手に車を乗り入れているのを見たことは?」
「あるわけないだろ。木が邪魔で、うちからは見えないんだからさ」
 スルガは文倉家の建っている方向へ顔を向けた。背の高い木々とその足元を覆う藪の壁によって隣家を窺うことはできない。
「ところで、せっかくだからもらっておこうかね」突然、意を決したような声を老婦人が発し、
 スルガが慌てて顔を戻すと、老婦人はスルガの手元を指差していた。
「名刺、ですか。どうぞ。スルガといいます」
「スルガさんね。いまは無理だけど、あとできちんと見とくよ」意味深な笑みをこぼして、受け取った名刺を籠の中に入れ、恥じているような口調で老婦人は続ける。「眼鏡がなきゃ、小さい文字は読めないんでね」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?