2011.3.11のこと

今は11時21分。日本はもう3月12日になっている。13年前の今頃は、パジャマのままでひたすらテレビとラップトップを見つめていた。

たまたま、2011年の3月11日から1週間の休暇を取っていた。夫の日本出張があったので、それに便乗して春の東京を楽しもうと思っていた。11日に荷造りや掃除洗濯を終えて、夕方には子どもたちの面倒を見てくれる義両親を迎えに行って、12日のフライトで成田へ、の予定。

友だちから短いメールが来た。「まさかもう日本にいる?」「明日出発だよ」と返すと「よかった!日本、大変なことになっているよ」そこで初めて東日本大震災のことを知った。当然翌日のフライトはキャンセルになって、1週間の空白ができた。わたしは一人になれる時間は昼も夜もなくニュースを追って過ごした。

津波で大きな打撃を受けた町のひとつには、馴染みがあった。と言っても行ったことも住んだこともなくて、新卒で就職した時に配属が決まりかけた町だった。結局別な地域になったのだが、どんな町だろう、どんな暮らしを送るんだろうと、想像を巡らせたことがあった。別な分岐を辿った自分も津波にあったような気持ちになった。でも、実際にはわたしは津波どころか地震もほとんどないところでぬくぬく暮らしていた。

日本の家族とはしばらく電話が通じなかった。長らく連絡を取っていなかった友人が「毛糸ちゃんの実家、行って来ました。ご両親無事です」とメールをくれた。あとで聞くと、彼女はレトルト食品や水なども持って行ってくれたそうだ。ありがたかった。別の友だちは、被災地域の病院へ助っ人として行くことになったよ!とメールをくれた。わたしはここでただニュースを見ていた。

個人で義援金を送る以外になにかできることはないかと思い、有志でベイクセールをすることにした。手作りのお菓子を売って売り上げを寄付する、というアメリカではよくあるチャリティーだ。明け方までひたすら抹茶とホワイトチョコレートのマフィンを焼いた。何かしていれば少し楽になったが、優雅にお菓子作りですか?という自分の心のツッコミには耳を塞ぐ必要があった。ベイクセールでは、たくさんの人があたたかい声をかけてくれた。でも、そのあたたかい言葉を受け取るべきなのは、わたしじゃないんです…と思いながら、ちょっと泣きそうになった。

あれから13年、やっぱりこの時期には遠くから見ていた(見ている)だけの自分に罪悪感を感じる。あの恐ろしい災害に遭わなかったことに罪悪感を感じる、という傲慢さを口にすべきではない。ずっと黙っていなければ、と思っていた。でも、さっきXにこの罪悪感について吐き出してしまったら(1時間したら消そう、と思っていた)、わたしだけじゃない、という返信をくれた方々がいて、救われた。ありがとうございました。東日本大震災も、能登の震災も、自然災害だけではなく人間が起こしている災いについても、忘れない。この罪悪感も忘れない。わたしにできることを探して、実行しようと思う。


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