必要なのは音楽だった
わたしは自分が好きではない。
どちらかと言えば、嫌いだ。
数年前の自分よりはいくらか〝好き側〟に傾いている気もするが、それでもやはり自分が嫌いだ。
本当はこんなこと、わざわざnoteには書きたくない。
でも、書いているのだから、本当は書きたい(誰かに伝えたい)のだろう。
わたしは強くない。
むしろ弱い。いや、かなり弱い。
毎日気持ちがブレる。
自分など存在しなくてもいいのではないかと思うこともよくある。
妻が働きに出ている間に、外食をしたり、何か欲しいものを買うとき、あるいは東京に一人で行くとき、オレは金食い虫だな……と思ってしまう。
そういうモードになると、わたしは自分の存在を消したくなる。
実際に(物理的に)消そうとは思わないが、このまま化石になってくれないかな、などと思う。
つまり、すべてがどうでもよくなってくるのだ。
しかし、「すべてがどうでもよくなる」と案外霧が晴れるもので、とどのつまり、「行き止まりなんてないんだな」とも思う。
先日、上京し、パン教室に行った。
夕方になり、一人都内を歩いていると、急激な寂しさがわたしを襲い、胸が苦しくなった。
たちまち、信号待ちで動けなくなってしまった。青になっているのに、その場に突っ立ったまま、まるで金縛りにあったような感覚だった。
最近では感じることがなかった深い悲哀。
辛うじて小さく呼吸ができることはわかる。
そのとき、額に雨粒が落ちた。
わたしは空を見上げて、灰色と藍色の混じった空から降ってくる雨に自分を晒した。
横断歩道を渡り、ようやくすれ違う人たちの顔が目に映るようになってきた。
誰かがわたしの靴の踵を踏んだ。
珍しくわたしはそいつを睨んだ。
でも、そいつはこちらのことなど気にも留めず、同僚とゲラゲラ笑いながらどこかへ向かっていった。
必要なのは音楽だった。
iPhoneの音楽アプリをシャッフル再生する。
しかし、今の気持ちにぴったり嵌る音楽がなかなか再生されない。仕方なくクラシックをかけるが、どれもマッチしなかった。
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スガシカオ。
タップする。聴く。流れる。ウルッとくる。
危うく泣きそうになる。でもわたしは泣かない。
スガシカオの歌が、わたしの思いを代弁するかのように歌う。
スガシカオが、わたしを励ますように歌う。
何回も何回もリピートして聴く。
わたしには、まだできることがあるかもしれない――。
そう思えた。
必要なのは音楽だった。
わたしは一度noteを退会したことがある。
でもまた始めた。
それなのに、またやめたくなっていた。
もちろん、やめたっていいのだけれど、それは自由なのだけれど、今はやめるのをやめておこうと思う。
画面の向こう側にいる人の顔がぼんやりと(想像で)見える。
だからわたしは今はやめない。
必要なのは……
必要なのは、強さじゃない。
そんなもの、要らない。
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