「違う」ということにリスペクトを持つ

とても当たり前のことなんだけど、日本に帰国してから、自分と価値観が違う人のことで悩んだり鬱陶しく思ったり陰口にしたり笑いにする人が多くてびっくりしたと同時に、日本人の民族性が反映した言動であり、
私が移住以前よりももっとそのことに違和感を感じ、この概念はNY生活によりガラッと変えて帰ってきたものだと気付いた。
日本に居た時にはあたり前だったのかもしれない。でも多分元々それに生き辛さを感じていたのだとわかった。
子供の頃から、どんなに人と違っても、人より遅くても早くても、変わってる人でもマイノリティでも気にされない、受け入れられている環境が欲しかったのだと思う。
きっと小学生から中学生までに何度か転校をし経験からそういう思いが産まれたんだと思う。
転校する度に、自分がマイノリティだと感じざるを得ない環境で、安心がとても欲しかったのだった。

New Yorkに移住してから、自分は転校レベルではないくらいよそから来た移民で言葉も違う完全にマイノリティだったけど、周りの人もマイノリティだらけ。誰も気にしていない。そんな環境に身を置いて生活する経験が自分の今までの人生をひっくり返してくれ、全肯定させられることになった。
(アジア人差別に合ったことは無くはないんだけど。その話もまた追々描いてみよう)
結構適当に決めた移住先 (初めはヨーロッパにしようと思っていたので) が、完璧に私の人生に必要な環境だったと後から納得した。だってこんなにも多種多様な民族が共存している街は世界中他にはないと思う。

ほんっとうに色んな肌の色の人達、白人、黒人、ブラウン(ラティーノや肌が茶褐色の人)アジア人、インド人、アラビック、ミックス、様々な人種、そしてもちろんルーツ、宗教、思想、ライフスタイルも食べてるものも違う、そして色んな体型、服装、多種多様な人間が同じ車両に一緒に乗っている光景を毎日見て、自分の人種も初めて意識するようになったし、そこから一方でみんなそもそもただの人間。という感覚で見る目になっていた。
自分の母国ではない土地で、自分のアイデンティティを強烈に客観的に観させられる体験は、今まで正解が1つ、もしくはとても少ない日本社会 ( そういう教育が違う人を気にしたりする人間を育てたんだろう)の中で生きてきて自分はダメな人間なのかなと思ってしまったり、肩の凝るような生きづらさうぃ感じていた私には必要なことだった。
私が日本で当たり前に知っていてそれを元に生きてきた常識は、そこでは全然非常識だったりすることが山ほどあった。

とにかく日本人は人の目や、動向が気になる民族。
本当は細やかで奥ゆかしく、その能力は他の人種には無かったりとても素晴らしいものなのに、その手前に他人にエネルギーを注ぎすぎて勿体無いなと思わずにはいられない。
島国で単一民族で暮らす社会がそうさせてしまうのは自然なことだとは思うけど。
もっともっとよその国へ出かけたり移住したりする日本人が増えたらいいなと本当に思う。
海外では日本は本当に素晴らしい国だと思われているし、それを頭で知るのでは無く体験として知るだけでも大いに価値のあるものになるはずだから。日本は本当にユニークな国で、多くの国と違うことが本当に多い。
その違いはとても尊いということを外じゃないとわからなかったりするから。
そして、違うということは素晴らしいと思えたら、「違い」から肯定的な方向へ進んでいけると思う。

みんな違うからこそ今まで自分が思いもしなかった考えが持てて視野が広がったりする。
人の違うところをそうやって良い方向から見れたら誰よりも自分が得をするし、自分も違っていいんだ。と自分をまるまる肯定して優しく慣れて、他人にまた優しくできて。という最高の循環ができる。
違うからと言ってわざわざ悩む必要なんて本当に無い。
みんな違うけど、きっと「幸せになりたい」という目的は同じなはずだから。

先日、「自分の中の”違和感”は器の小ささと視野の狭さ」
という言葉を見た。
逆に今、そんな日本の社会の中に居る違和感もただ自分と違うんだな。と客観的に見つめて、「違い」から苦しさや悲しさが生まれないように願うことが私にできることかなと思っている。




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