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両手を広げた範囲だけはすべて安寧の地にしたい ニューヨークの治安と住環境

以前のこちらの記事に書いたこと。

ニューヨークという街では、いつまでここにいるかわからないもの同士でやっていくことが多いと感じる。せっかくできた友達がニューヨークを離れるのは珍しいことではない。新しく引っ越してきた人もいれば、友達が母国や別の州に去ったゆえに友達を探す永住者もいるので、 アプリには常に友達を探しているひとが溢れている。
アメリカには長く住む予定だけれど、ニューヨークにはいつまでいるか正直わからない。多くの人にとって、「そういう街」だと思う。

東京も「そういう街」の一つであることは分かってはいたが、友人知人も東京出身が多く、実感として薄かった。
出身ゆえに考えたことがあまりなかったが、ニューヨークに来てから少し分かったような気がする。宿り木的な都市の輪郭。

自分たちで借りた部屋なのに、ずっと合宿所のベッドの上みたいな慣れない感覚で、寝る姿勢が定まらない。自分のものではないと感じる。そんなことを考えて日々を過ごしていたら、6月末に急に帰国できることになり、二週間の日本一時帰国をした。三ヶ月ぶりの日本。

アメリカに住み、アメリカのいいところを享受しながら日本の酷さを痛感し、日本に帰国して、日本のあらゆる利便性に改めて感謝を覚え、アメリカの不便と不安を思い返した。

帰国して最も聞かれるのは食のこと、そして治安のことだった。
食については前回の記事を参照していただけると嬉しい。
ここにあるのと同じことを、今回参加したすべての飲み会で話した気がする。


今回は、治安について書く。

コロナ禍、多種多様な人種が暮らすアメリカではアジア人差別、アジアンヘイトクライムが深刻化した。

もともとアジア人差別は思いっきり存在した。ちなみにBLACK LIVES MATTERと声を上げる活動もずっと存在した。
トランプ政権とコロナ禍以降、あらゆるヘイトクライムが明るみに出ている。

明らかな嫌悪だけではなく、差別と受け取るかどうかが個人の感度次第になりがちなカジュアルレイシズムを含めると、日常茶飯事だ。
”HAHAHA!"ではない、「ははは!」と日本語の発音で笑い方を真似してくる子供の言動など、数えたらキリがない。

日本にいる日本人は何となく「自分たちは非差別対象だと思っていない」傾向があると思う。
日本国内で他のアジア人、中国や韓国の方々への差別が根強くあるからかもしれない。
以前、韓国人の知人が日本の電車内で「AirDropで差別発言が送られてきたことがある」と言っていた。
iPhoneの名前で日本人ではないと判断されたようだった。

一歩日本の外に出れば、アジア人はすべて一緒くたにされるというのに。

日本においては人種差別されたことがない人が過半数であると思う。しかし日本人であっても国内で差別されることはルーツによって(日本出身であるが親が外国人である場合など)起きている。一方的な見た目や出自の判断。

ジェンダーギャップが酷すぎる日本だから、性差別の方が遥かに体感しているはず。
欧米諸国では"アジア人"も"女性"弱い。かけ合わさってたちまちに立場が弱くなる。

アジアンヘイトは、BLM(Black Lives Matter)のような連帯が日常的にはあまり見られない、というか、あまりにも見られない。
それは黒人よりさらにマイノリティである所以と、アジア人同士はお互いそれぞれのコミュニティ内で生きているからであるように感じる。

中国から来た人々を例に挙げると、ニューヨークにいくつかあるチャイニーズタウンはどれも独立した街としての規模、機能があり、英語が話せないまま生活している人が多くいて、彼らは言語による孤立を全くしていない。
チャイニーズタウンのバンク・オブ・アメリカ(もちろんアメリカの銀行)なら、中国語だけで事足りる。
一方、大きなジャパニーズタウンは存在しない。ニューヨークで家族も友達もおらず、一人で日本語しか話さなかったら、間違いなく孤立するだろう。日本語だけでアメリカの銀行口座は作れないだろう。

ニューヨークそのものがアメリカの縮図であると言えるほど相当な多様性のある街でありながら(他の都市は州による人種の偏りがある)、実は都市の中でそれぞれの人種が固まって暮らしがち。
ここは中国人エリア、ここは黒人エリア、ここはロシア人エリア、といったように。
そして当該の人種ではない場合、そのエリアに家を借りにくくなっている場合もあり、コミュニティはより強固になっていく。
その中で暮らしている分には不便、不安は少ないし、あからさまな差別もされない。
しかし、当然そこだけで暮らすことは難しい。

ジェンダーギャップが日本よりマシでも自分はその国のネイティブになれない。
旅行に行っただけでは気づかないかもしれない。暮らすことで、本当に居心地のいい場所はどこにもないかもしれないと気づく。


ニューヨークの地下鉄では気をつけることがある。
十分に周囲に警戒すること、そして壁に沿って立つこと。

なぜ壁に沿って立つかというと、線路への突き落としが多数発生しているため。
地下鉄における傷害事件は深刻で、人種問わず被害者がいるが、アジア人を狙った突き落としが実際に起きている。

ニューヨークの地下鉄で痴漢に遭うことはないが、危険な目には遭うかもしれない。
ホームドアもないため、スマホを見ながらぼんやり最前列に並ぶことが”危ないこと”になる。悲しいけれど事実で、自衛するしかない。


ニューヨークは世界一物価が高く、治安も安定していない世界一の大都会。
とはいえブロンクスやハーレムのような治安の悪い地域に出入りしたりせず、コミュニティ内に引きこもっていれば基本的に問題なく暮らせる。
夜中まで飲み歩いたり、レイトショーに行ったり、夜道を好きな音楽聴きながら歩いたりすることは、諦めるけれど。

住む場所は全て安寧の地であって欲しい。そう願うことは実はかなり高望みである。(日本でだってそう)
ひとりひとりが"安寧"をやる。そうすればどこも穏やかに暮らせるはずなのに、と平和ボケした理想を、銃撃事件と隣り合わせの生活をしていても捨てることができない。
せめて両手を広げた範囲くらいは絶対に安寧を保ちながら生きたいと思う。