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なんで哲学科にはいったの?って聞かれるから答えてみた

久々の更新です、

どこかで履歴書を出したり自己紹介をするたびに「哲学ですか〜またなんでそんなところに」と言われる。
100人に履歴書出したら100人に触れられる。
ありがたいことなのだけど、これって私が史学科や英語学科や経営学科なら多分聞かれないんだろうなと。
歴史が好き、英語が好き、就職のため大体の理由が思い浮かぶものと違って
哲学科って何がしたくて入るものなのか多くの人には理解不能のようで、
私は第一志望が哲学科だったのでついつい聞きたくなるのだと思う。
そこで今日は、哲学科に入ろうと思った理由と哲学が将来なんの役に立つと思ったのか、何が好きなのかを話していく。

哲学科に入ろうと思った理由

ズバリ、やりたいことがなかったから。 
数学、歴史、英語、経済、科学、宗教、医学・・・大学では各々好きな科目を選んで勉強をするだろう。東大のシンフリのような場合もあるだろう。
私はシンフリのようなものは嫌だった。高校は卒業生代表だったとはいえ、勉強に自信がなかったし、なぜ勉強に自信がないのかというと、自分にとっても入るのが難しいだろうなと思う大学に入りたかったから。きっと苦手な科目に進むことになったら本当において行かれてしまうそんな危機感があったのでシンフリに近い制度がある学校は受けなかった。

入りもしなかった塾で面談をした時に「苦手なことをやりたくない。でも今までバランスよくやってきたせいでどれも成績が良くて苦手科目がわからない。今の高校のレベルなら難しいものは何もない」と相談。
さらに「経済とか経営は社会に出たら嫌でもやるから、今しかやれないことをやりたい」という条件も付け加えた。
そこで塾のカウンセラーが私にズバリ進めたのが「哲学科」だったわけです。哲学のいいところは領域が広いところで、数学・歴史・美術・政治・経済・語学・宗教・心理学・・・そう知識欲のまま、何をしてもいい。
私にはもう少しレベルの高い環境で自分のやりたいことや興味を見つける時間が必要でしたから迷わず、哲学科を目指した。
学習院に入った理由は説明会でお話しした先生を私の家族が気に入ったからで、家からも通いやすく、ネームバリューもあり、今の高校より少しレベルが高い生徒が集まりそうというところで何も条件的に苦しいところがなかったためだ。

哲学という専門性は役に立つのか


美少年だと噂の先輩は何度も私に言いました。
「哲学持ってるやつは大丈夫」
「哲学持ってるやつは心配いらない」
この言葉にはパワーがあった。自信を感じた。彼はさらにレベルの高い大学に進学し、そこでも哲学を学んだ。どんなに美しいひとでも、哲学には人を魅了し離さないパワーがある。

誰もが一度は自分の存在や神、死後について考えたことがあるのではないだろうか。特に子供の頃は、この世に生み落とされた現実と向き合い「なんで?なんで?」を繰り返したんじゃないだろうか。なんでかを知るためにはとんでもないエネルギーが必要だと知り言わなくなる。なぜ雨が降るのか一つとっても子供には頭の痛い知識量に違いない。

時代は変わる、人々の行動もテクノロジーも。
それでも変わらない真理は存在する。例えば1+1=2というもの。
現状では普遍的に思う。数学も哲学の範疇だ。
そういう普遍的なものというのは生きていく上で強いアドバンテージになる。あなたは人生で何回足し算をしたか覚えているか。覚えていないだろう。だが、それは確かに役に立った普遍的なものではないか?

先輩の言っている「哲学を持つ」というのは「普遍的で揺るがない軸のある人」という言い換えができる。
高校の先生はこう言っていた。
歴史が過去、公民が今、哲学は未来だと。
私は未来を生きるための生存戦略なのだと哲学するというスキルを捉えている。真理に向かおうとする力、何が普遍的なのかを自分の軸をもって判断する力、対話・批判力等が身につく。もっと美しい言い方をしよう。
これはすべて一言に表すと「異なる文化や思想と接したときに背を相手に向けない」スキルだ。

哲学の面白いところ


私は結構哲学にハマってた。
どんな分野も教授の単調でなければ素晴らしく面白かった。
教授の話が単調だったときでも自分で買った岩波の安い哲学書と聖書を読めば満たされた。聖書は瞳の色がグレーなクリスチャンの友人に私が買ってよと逆宣教(?)して買わせたもの。ちなみにその人は哲学に全く興味がないので後から高い教科書代を払わされたと思っているかもしれない。

哲学と聖書は切り離せない。私のとっていた科目には神学もあった。
特に神の存在論証の授業はどれも快感を伴うもので、見えないものを数学やら理屈やらを使ってどうにかこうにか証明する
それに意見し、逆らってみようともプロ以上の腕前がないと偉大な哲学者たちは現代の価値観を持ってまでしても論破できない。
これは面白い。

私のゼミの教授は下川先生と言って、目と足が不自由な人だったけど、ちゃめっけがあり、論述を本業とする者の狡猾さまでもが滲み出る奥深い人物だった。先生は目が悪いけれどなぜか「Lさんがいるときは話さなくてもはわかる」という。聖書を持っていると名指しで「マタイ ○章○節を読み上げて」と言ってくる。なんて痛快。見えないのに、見えてる。非日常体験。
優秀でちゃめっけがあり、目が悪いというキャラクターなのに実際は見えている。この人は「すべての物事の本質が実は見えているんじゃないか」そんな見透かされた気分になる。

あるイギリス思想の授業(マッキンタイアだっただろうか)で教授は「私はこういうふうに批判することができると思う。君たちはどう?まだ難しいかな。でもね、権威のある論に対して批判論文を書いてうまく反論ができるとね、何度でもそれを味わいたいと感じるほどの快感が得られる。」と意地悪な顔をした。
こんなこと言われたから余計に哲学の世界に本当に魅せられてしまった。
涎が出そうなくらい「完全なる批判」が甘美なものに見えてしかたなかった。
苦手だと自覚した英語も哲学書の甘い言葉たちのためなら頑張れた。
脳を刺激する強い言葉がもっと聞きたかった。

終わりに


今日書いた内容は直感的に思いついたことで、もう何年も前のことなので当時はまた違った感動があったのかもしれない。
大学1年生の時は実は東洋美術をメインに日々ひたすら絵を見て感想を述べる生活をしていたのだが、こんな貴族のお嬢様のようなことをやっていて社会に出れるのか心配だった。漢文を読んだり、巻物を取り扱うセンスは自分には結構あったと思うのだがなんの役に立つのだろうか・・・と思っていた。

その不安で飛び込んだのが西洋思想の授業だった。始まりはそんなものだ。
このnoteを読む人が高校生なのか、哲学科に通う学生なのか、身内なのかはわからないが哲学から得られるスキルと魅力は計り知れないし、「知を愛す」とかいてフィロソフィーだ。それだけ哲学を好きな人は日本国内にも日本を出ればもっといるに違いない。哲学を好むものは議論について挑戦的かつ攻撃だったりする一面を持つが、それは決して悪口を言っているのではなく知を愛すが故の行動だとわかってほしい。
納得いく理論的な答えが出るまでしつこいし、やや変わり者が多いが、私たちの魅力は議論で背を向けないことにある。なんだか素敵なパートナーになれそうな気がしてきた頃じゃないかな。

それでは今日はここで終わり。

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