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新約聖書を読み始めました

(本記事はアバタローさん運営の読書会コミュニティ「Book Community LIBER」上のブログでも掲載しています)

 色々な人に影響されて、新約聖書を読み始めました。

 史実的により古い旧約聖書とどちらを先にしようかと悩んだのですが、ひとまず一歩引いた客観的な見地から新訳を学んでみようと思ったのです。
 なぜなら、西洋(のみならず、一部ではロシアなども)、キリスト教神学は宗派の違いこそあれ、文化や思想的な基礎をなしています。
 現代の大半の国際情勢・通念を理解するために避けて通れないわけです。

 今は日本聖書協会による口語訳がパブリック・ドメインになっているようです。

https://www.ogccl.org/jcb/index-nt.html

 私はAppleの「ブック」で口語訳と文語訳、両方購入しました。公共財的な面もあり、それぞれ200円程度と安価な価格設定でした。

 聖書は世界最大のベストセラー本とも言われているだけあって、世界の至る所に置いてあります。小学校の頃、百科事典(私たちの時代、つまり80〜90年代は、親が子供の教育のために百科事典を買うことは中流家庭ではよく見られました)にジェット旅客機の常備品リストに聖書があったりして、へーと思ったりしました(当時聖書って?でしたが)。 国によっては刑務所の中にも常備されているようです。

 昨日は聖書の最初、マタイの福音書からです。

 序盤から有名なシーンや一節が登場します。
 例えば、マタイの福音書の第4章、イエスが悪魔に誘惑され

「お前が神の子であるなら、この石をパンに変えてみよ」

というあのシーンです。
 これはロシアの文豪ドストエフスキーの名作「カラマーゾフの兄弟」における有名なパート「大審問官」にも登場する名シーンです。

 第5章。ここも印象深い。イエスの言葉には、よく繰り返しのパターンが見られます。ここで出てくるパターンは

「『〜〜』と言われていたことは、あなた方も聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。〜〜」

 と言うもの。

 これは、『旧約聖書ではこう伝えているけれども、しかし私の解釈はこうであるから、このように気をつけなさい』

 というイエスの説法アプローチです。これは旧約聖書が民族宗教であるユダヤ教の聖典であり、ユダヤ(ヘブライ)民族の救済に特化しています。そして民族の結束強化を図るために、その戒律の内容は大変厳しく時に残酷なものとなっています。

 史実によるとイエスもユダヤ人のようですが、彼はユダヤ人以外の人々(全ての人類)に対して、信仰を通じて救われる、という説法を行うことで人類救済の主(救世主)とされました。

 イエス・キリストの「キリスト」の意味するところは、「油を注がれた者」を意味するそうです。これはユダヤ教時代からの伝統で、神の加護を受けたことを意味します。
 この栄誉を受けられるものは、ユダヤ民族を率いる王、大祭司、そして救世主だけと言うことです。つまり、この文脈では、キリストは救世主を意味することになります。救世主イエスです。

 イエスは、ユダヤ人以外に排他的な旧約聖書の厳しい戒律について、すべては否定しないものの、限定的にアンチテーゼを示して、新たな教えを広めました。それが、彼に感化された弟子たちによって教会が作られ、世界宗教であるキリスト教に繋がっていったというわけです。

 聖書は内容をいきなり読むと意味や意図がよくわからなかったりすることも多いと思いますが、やはり他のさまざまな書籍や文化について触れて、再度読むことで意味が多義的にわかったりしますから、味わい深いものです。

 私はキリスト教信者ではありませんが、キリスト教の神学やカトリック・プロテスタントなどいろいろ宗派はあれ、西洋をはじめとした今日の文化(明治以降の日本も多分に含まれます)に色濃い影響を与えています。教養の一つとして、触れていくのも良いのではないでしょうか。

 キリスト教は今日、かなりのダイバーシティ(多様性)があります。
 特に聖書については宗教学的に取り組んでもよく、必ずしも信仰する必要はありません。教養として嗜むことは世間通念的に十分受容されているようです。

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