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栗羊羹

あれは単なる味覚か、それとも味覚を越えた作用なのか…

小学生の頃、私は大の仲良しだった幼馴染の友達と、近所の児童館で遊ぶのがお決まり。トランポリンをしたり、バトミントンをしたり、一輪車もあったかな…とにかく主に体を動かして遊ぶことが好きだった。

児童館では遊具や図書室で遊ぶ以外にも、様々なイベントや月謝を支払ってクラブに参加することもできた。ある時、私と友達はどちらが言い出したのか記憶にはないが、なぜか「お茶クラブ」というものに興味を持ち、トランポリンから一転、お茶クラブの体験に参加することになった。

着物を着た大人が粛々とお茶について教えてくれる。
その時お茶はたててもらったのか、自分で体験したのか記憶にはない。それよりも私たちのお目当てはお菓子。だってそれを楽しみにしていたのだから。私たちはそれに惹かれて体験したかったに違いない。
待ちに待ったお菓子。…しかし、その時出されたお菓子は栗羊羹だった。
ゲッ。私は正直そう思った。羊羹はなんかざらざらするし、栗自体もボソボソするから好きではなかった。なんだ、こういうおやつか…と内心で思いながら、見様見真似で栗羊羹を口に運んでみる。すると…えっっ!これが栗羊羹!?たぶん私の目はアニメさながらにキラキラと輝いていたと思う。もう栗羊羹がこんなに美味しい食べ物だっただなんてという衝撃が大きすぎて、それしか感想を抱けなかった。

家に帰り、母に「絶対やりたい!絶対に続けるから!」と懇願し、私のお茶ライフが始まった。あぁ、なんだかちびまる子のような自分が目に浮かぶ…

栗羊羹の衝撃が大きかったとはいえ、私はそれなりにお茶にハマった。今となって思うのは、子供の私では言語化できない〝お茶〟の魅力を、ちゃんと感覚で感じていたのではないかということ。「道具が欲しい!練習するから!」とおそらく今回二度目の〝一生のお願い〟をしたのだろう。家でもお茶が立てられるように道具一式を揃え、家族にお茶を淹れてあげていた。そんな記憶も蘇る。

どれくらい続けたのか、なぜ辞めてしまったのかは忘れてしまったけれど、大人になればなるほど、時折思い出しては「またやりたいなぁ」と頭の片隅ではずっとそんな思いがあった。

今回、30年以上の時を経て、導かれるように再びお茶の世界と出会えたのは、当時言語化することのできなかったその魅力を表現するためなのかも知れない。

そして、あの日の栗羊羹の味を越えるものには、まだ出会っていない。


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