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「察してあげる」コミュニケーションから脱して、自由になろう

この記事は長文です。私の今の気持ちを整理するために書きました。良かったら、最後の末文までお付き合い下さいませ。

最近、「私の気持ちを察してほしい・・・」という人たちの気持ちを察してあげることが、ものすごく苦痛になってきました。

この「私の気持ちを察してほしい・・・」という人たちのことを、一部では「察してちゃん」と呼称しているようですが、日本社会には、こうした「察してちゃん」系の人が、老若男女問わず、結構多いと思うのです。

私も以前は「察してちゃん」でした。

「自分の気持ちを、ストレートに相手に言ってはいけない」という制約が、頭の中にずっとあって、言いたいことがあってもグッと飲み込む癖がありました。親もそうだったので、多分、親から擦りこまれたのでしょう。

昔は特にそうだったと思うのですが、自分の気持ちを相手に正直に言うと「出過ぎたことをするな」「わきまえていない」と厳しく叱られた気がします。
相手と自分のパワーバランスを見て、自分が弱い立場だと「余計なことを言ってはいけない」と自分に言い聞かせ、一端引いて我慢しなきゃいけない・・・という空気。

自分の気持ちは自分の心の奥にじっと隠して、相手のご機嫌を損ねないよう気を遣い、相手が喜ぶことをセッセとやってあげなくてはいけない・・・。これを上手にこなして出来る人が「大人」として受け入れられるのです。

昔は、社会全体に「そうしなきゃいけない空気」が絶対的にありました。

だから、昭和世代の人たちは、自分の気持ちを素直に表現することが苦手なのですよ。

本音が言えないから「察してほしい」と要求する

自分の気持ちを口に出さず、じっと腹に溜め込んでいることは、結構つらくて苦しいものです。

だから、ストレートに言わない代わりに、「相手が気づいてくれる」ことを期待して、ネチネチと遠回りな言い方をしちゃうのです。

察してちゃん側から見れば、こっちは一生懸命に「私の本心は〇〇なんです」と信号を送っているのに、相手が全く気づかない鈍感な人だと、「どうしてアイツは全然察しないのだ!全く気が利かないヤツだ!」と腹が立ったり、イライラしてくる訳です。

時代が昭和から平成、さらに令和になり、人々の意識は大きく変わってきましたが、まだこの古い価値観で生きている人が多い地域や集団の中だと、察してあげられない鈍感な人は、居場所をなくす恐怖があります。

昔から受け継がれている「負の価値観」

私の周囲を見渡すと、だいたい私の世代より上の人たち(私の親世代)に、このタイプの人が非常に多いなぁ・・・と思います。

自分の気持ちより、周囲の空気に合わせることが「当たり前」だった時代を果敢に生きてきた人たちです。
そういう世代に育てられた私たち世代も、この価値観を刷り込まれて、親世代とそっくり同じ感覚で今を生きています。


今は高齢者となった親世代も、彼らのコミュニティでは「察してちゃん」文化は健在です。今も察し合うことで人間関係が成り立っています。

だから、親世代の人たちと一緒に居ると、今も暗黙の了解で「察して」コミュニケーションが必要になります。

例えば、本当は、腹の中は「嫌だ」という気持ちが満タンなのに、ニコニコ笑顔で「嬉しいよ。楽しみだよ。」と言ってみたり、本当は「こうして欲しい」と思っているのに「別に要らないのよ」と遠慮してみたり・・・。

万事がこんな調子なので、その度に「この人の本心は、本当にこれなんだろうか?」といちいち察してあげなくてはいけません。

相手の表と裏が一致していれば、こちらも分かりやすいのですが、表と裏が真逆だったりするので、そのたびに、うっかり相手の表の言葉を真に受けて信じ、相手の地雷を踏む・・・なんてことがないように、こちらはかなり気を遣います。

これが、本当に面倒臭いのです。

「察して」コミュニケーションは複雑で難解すぎる

もちろん、今まで散々躾けられてきた私なので、「察してアンテナ」をピンと立てれば、今も完璧に「相手の気持ち」を感知して、上手に察してあげることはできます。


でも、最近は、そうやって相手の気持ちを察してあげて、全てを汲み取ってあげることに疲れ果ててしまいました。変化球ばかり投げてきて、うまくキャッチできないとワーワー喚いていじける相手とのコミュニケーションが、すごく面倒臭くなったのです。

それに、相手が本心を言う前に、こっちが相手の意向を汲み取ってしまうことは良くないことなのではないか…と思うようになりました。

俯瞰してみたら、相手の表現の機会を奪う「悪いこと」ではないか…と。ただでさえ自己表現が下手な相手なのに、こちらが忖度して動いたら、相手はますます自分を表現しなくなるでしょう。これは相手の為に成らない…と感じました。

しかも、この「察してちゃん文化圏」にいると、私が相手の気持ちを察してあげなくてはいけない代わりに、相手も、私の気持ちを勝手に汲み取って、頼んでもないことをぐいぐい押しつけてくるのですよ。
これも、なかなか辛いものがあります。

更に、こちらが自分の気持ちを素直に伝えると、それが自分の期待と違う場合、「傷ついた」と言っていじけてくることもあります。

また、相手の期待をスルーすると、「あの人は気が利かない」と陰でコソコソ悪口を言われることもあり、そういう人間関係がとにかく鬱陶しいのです。


こんな感じで、「察してちゃん文化圏」を生きていると、察してちゃん達が、私のテリトリーにツカツカと土足で上がり込んで、いろんなものを押しつけてくる・・・という感じです。一度それを許すと、察してコミュニケーションで関わろうとしてきます。

自分の意思とは関係なく、互いに察したことをやってあげたり、受け取ったりしなきゃいけないので、時間とエネルギーの無駄なんですよね。

だから、今はスイッチをオフにして、わざと気が利かない人になっています。彼らに陰で悪口や陰口を言われても「どうでもいいや」という気分です。コソコソ裏で何をされても平気になりました。

それより、「察してあげなきゃいけない」という苦痛を自分から取り除き、自分を解放して自由にいきたいのです。

言いたいことは正直に言ったほうが「得」

これからは、言いたいことがあるのなら、ちゃんと自分の言葉でハッキリ伝えることが大事だし、相手の反応を見て、それでいちいち傷つかないことも大切だと思います。

そもそも「相手のご機嫌を損ねないようにピリピリ気をつける」という価値観が、もう、これからは通用しないと思うのですよ。

相手のご機嫌は、相手が自分で調整してコントロールするものですよ。私には「相手のご機嫌をよくしてあげる」という義務も責任もありません。自分のご機嫌は自分で管理するものであり、人に面倒をみてもらうものではない・・・と、私は思うのです。

それに、自分が喜ぶ反応を相手から引き出そうとしたり、相手が気を利かせてくれることを期待することよりも、相手の「正直な反応」を私は見たいのです。また、相手の「本当の気持ち」を私は知りたいのです。だって、どんなに表向きは優しい言葉を並べ立てて「良い人」っぽく見えても、腹の中では何を考えているのかサッパリ分からない・・・そっちの方が不気味で怖いですもん。

多少口は悪くても、裏表がない正直な人の方が私は信頼できるし、安心できます。察する必要が無いから、付き合いも楽だし、こちらも本音で語ることができます。

裏表がない正直な人の方が、私は好きです。

これからは「脱・察してちゃん」

ただでさえ先行き不透明で、不安が大きい時です。

余計なことでウジウジと悩んで、自分の気持ちを鬱々させないためにも、カラッと明るく正直にクリアにいきたいものです。

今こそ、脱「察してちゃん」ですよ。

察しなくても、自分言葉や相手の言葉が「真実」として受け入れられて信頼でき、そのままクリアに個々の気持ちが認められていく社会へ・・・。そう世の中が大きく変化していくといいなぁ・・・と切に願っています。

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