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冬至の日の午後、久しぶりに息子と会う

昨日(12月22日)、日曜日の午後。

一人暮らしをしている息子と久しぶりに会い、差し入れを渡してきました。

持っていったのは、これ。

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クリスマスなので、シュトーレン。(近くのケーキ屋さんで買った手作りシュトーレンです。切り分けたので息子にもお裾分け)

婆ちゃん(義母)が作った味ご飯。(そのまま冷凍できるようラップで包んだもの。2食分。)

そして、私が作ったリンゴと柚のみりん煮。(詳しくはこの下。)

これららを持って行き、スタバで合流しました。

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(高山のスタバ)

最近は、1ヶ月に一回のペースで会っている私たち。

普段は会わないし、電話もしないし、息子の部屋に勝手に入ることもしないし、同じ市内に住んでいながら全く別々。お互いのプライバシーを尊重しながら暮らすようにしています。

こういうのを「自立」っていうのかなぁ・・・?

私の知人でも、子供は健常者で成人しているのに、何故か我が子に精神的にベッタリ依存していて、ずっと親子が同居して一緒に暮らすことに異常なほど固執している人がいるけど、(昔は親子が同じ家で暮らすことは価値観として当たり前だったかもしれませんが)、私はああいうの、正直すごく苦手なのですよ。

息子が大学に進学し、家を出て一人暮らしを始めたとき、沢山の人から「淋しいでしょう?」「息子さんに会いたいでしょう?」「大事な息子さんだから、手元に置いておきたかったんでしょう?」と聞かれたけど、私は「いいえ、もう充分です。ずっと一緒にいたから、これからは別々でいたいです。」と答えてきました。

そのたびに、ほとんどの人が「えっ?」という顔をして、すごく怪訝そうでした。

どうも世間では、

障害児の母親=聖母のような存在=母性の塊

・・・というイメージを勝手に抱いている人が多いんですよね(汗)。

だから、

母親と障害を持つ子が一緒に居る=愛情たっぷり=理想的な親子像

・・・だと思い込み、勝手に理想化して期待しちゃうみたいです。

なので、息子が家を出て一人暮らしを始めたと知った時、皆さん、私が淋しがって泣き叫び、淋しさに耐えられず、ずっと落ち込んで沈んでいるんじゃないか・・・と思っていたみたいなんですよ。

いやいや、それは全然無いっす!笑

今まで自分の時間を削りまくり、ずっと子供に付き添って、やれ病院だのリハビリだの、学校の送り迎えもずっとしてきました。子供のために定年まで続けるつもりだった仕事も辞めたし、自分のスケジュールのほとんどを子供につき込み、多少無理もしながら根気に取り組んできたけど、その甲斐があって、お陰様でこうして無事に自立出来たのですよ。

ですので

「いやいや一人暮らしができるようになって、私はとっても嬉しいです。淋しいどころか、私は自由を得てワクワクしています。これからは、私の人生を楽しみます!第二の青春を謳歌します!」

・・・と答えてきました。

(私が)淋しがっているはずだと勝手に決めつけて、そう信じている人たちのなかには、落ち込んでいる人を慰めるのが好きな人(言い方を変えれば、感動ポルノを求めている人)もいます。そういうタイプの人々は、意外すぎる私の返答に豆鉄砲を食らったような顔をして、ものすごく驚くのですよ(笑)。

ゴメンナサイね、皆さんの期待を裏切っちゃって・・・。でも、これ本当なんですよ。息子だって、いつまでも母ちゃんとベッタリは気持ち悪いって嫌がっているし、私だって母ちゃんがいないと淋しくて泣くようなマザコン息子では困るし嫌だし・・・ね。お互いに今までは必要に迫られてベッタリしてきたけど、好きでそうしてきたわけではないのですよ。

移動手段が「親の車」な上に、公共交通機関が充実していない田舎だから、否応なしにベッタリせざるを得なかったです。

親子べったりのせいで、息子も親に全部ツーカーでプライバシーもへったくれも無い状態だったし、これ、思春期の男の子には辛いことですよ。可哀想ですよ。だから、あえて親元から離れることで、親がノータッチの息子独自の世界を自由に作って生きてもらいたくて、大学進学をきっかけに一人暮らしを決行したのです。

そんな皆さんが期待しているような「美しい聖母の世界」や「美談の世界」ではないんですよ(笑)。これが現実なんですよ・・・。

とまぁ、そんな感じです。

「障害児の親=聖母」というステレオタイプのイメージ、全然そんなんじゃないから、ぶっ潰したいと思いました。ぶっ潰して、この気持ち悪さを解消したいと思ったのです。

だから、自由に正直に、自分たちのことを語りました。

息子と離れて暮らし始め、自分の時間を取り戻して楽しそうにしている私の姿も隠すことなくオープンに晒して、たくさん見せてきました。

そのたびに、すごく複雑な気持ちになる人もいたみたいです(汗)。障害者の母親に「犠牲精神」や「薄幸そうな姿」を求める人たちにとっては、私は完全に真逆な存在・異端児でしょうね。

でもね、これは私の人生だもの・・・。私の人生なんだから、私は私らしく生きる。それで良いのです。そして息子には息子の人生があり、親から自立できるのなら、ちゃんと自立して、自分の人生を自分流に楽しんで生きていく。・・・これ大切なことですよ。諦める必要はないのです。正解なんてありません。自分たちがこれで良いと感じたのなら、それでいいのですよ。私たちがそれで幸せなら、人がどう思おうと、どう評価しようと一切関係なく、それで良いのです。

他人の期待に、そこまで応える必要はありません。

こんな気持ちでずっと生きてきたので、私たちの意外すぎる姿に驚いている人々の反応を見るのが、逆に私の楽しみでもありました(笑)。

決められたレールからはみ出た価値観・生き方・感覚・障害者の家族観・・・。いろいろ多様性があっていいんだし、自由でいいのです。

それを自分たちの生き方で示している・・・。そんな感じです。

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(冬至だったので、柚シトラスティー)

障害を持つ人は、障害の軽重に関係なく、一生死ぬまで「自立」と向き合わなくてはいけません。いろいろな場面で、障害の状況に合わせて、その場その場で様々な「自立のかたち」を考え、取り組まなくてはいけないのです。今の息子も同様。

この日は、息子の職場でのことについて、いろいろ話しました。

本当に難しい問題です。ただベッタリとくっついているだけでは解決にならないのですよ・・・。ベッタリ親子でくっついていることが、障害者の幸せではありません。

子供の人生に横たわる障壁をどう取り除いていくのか?

常にそれらと真摯に向き合い、家族で知恵を出し合って、積極的に取り組み、根気に根気に歩んできた・・・それが私たち親子の歴史なのです。

ゴールがないところに、自分たちでゴールを設定しなくてはいけない。だから障害児の親は大変なんですよね。

他者から見れば、ずっと親子でベッタリくっついているだけみたいでしょうが、障害児の家族はそれぞれに何かと向き合い、何かと闘いながら生きている・・・。決してファンタジーの世界に住む妖精のような世界ではないのです。生々しい現実的な問題と取り組み続けている・・・挑戦者です。


一時間、息子とスタバで語りながら、私はまた新しい課題が出てきたなぁ・・・といろいろ感じました。これで終わりではなく、一つクリアしても、また新しい課題が出てきます。これからも延々とその取り組みは続きます。

でも、常に新しい気持ちで、めげることなく根気に対処していかなくてはいけないなぁと思いました。

冬至の日。

この日は寒くて冬らしい1日でした。

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