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毒親と母の日 ②【傷を癒すために必要な気づき】

前回①の記事はこちら↓

衝撃の気づき

今回、鯖缶さんやそれとよく似たアカウントの人たちの姑への嘆きのツイートを読むにつれて「これって、うちの母親とそっくりだ!」という衝撃的な気づきが私に訪れました。

私の娘に話したら「今さら?!」とそれこそ驚かれることだったのですが、実母ゆえに、そして母娘共依存が完全に抜けていなかった私にとっては、目から鱗が落ちたような感覚でした。

鯖缶さんたちが客観性をもって呟く姑たちの異様な言動は、本質的にまったくうちの母親と同じで、それは本当に「おかしなこと」だったのだということに改めて気づいたのでした。実の親に対しては、認知のゆがみと、彼女を無意識で庇う気持ちがあったことによって、よその姑さんのようには客観的に見ることができていなかったのでした。

私自身が、これまでの母親の言動に抵抗を感じ、傷ついてきたことは紛れもない事実なのに、それでもできるだけそのことに気づかないように、自分の感覚を押し込めていたことが、本当にお腹に落ちたのでした。

子どもは自分の所有物?!

更にショックだったのは、そこで嫌われている姑さんたちは、私と同年代だということでした。明治や大正生まれの親を持つ80代の老親たちではなく、まだ40代50代の女性たちが「子どもは自分の所有物。だから、その子が産んだ孫も自分の所有物」と思っているのです。

そして、いまだに「嫁」という言葉を使ったり、「〇〇家の~」という意識を持っている人が多いことにショックを受けました。(その人たちは、家制度はもう法律にはないことも、今は夫婦の苗字はどちらの姓を選んでもよいということも、もしかしたら知らないのでしょうか?!)

私は、親が子どもを産み育てるのは、無償の愛がベースであると思っています。自分の子どもという存在を自分の人生に迎え入れることは、もちろん物理的精神的には大変なこともあるかもしれませんが、それを越える「愛」と「人生体験」をもたらしてくれることです。

彼らと共に生きることによってもたらされる喜怒哀楽の体験のすべてが、人間として生きる魂の喜びであり、人生の深みを増してくれることだと思っています。

子育ては無償の愛

子育てに関しては、ギブ&テイクは当てはまりません。なぜならそれは、あくまで「無償の愛を、親側が体験する」尊い機会でしかないからです。なのである意味「母の日」や「父の日」という子どもが親に感謝する設定は、おかしなことなのかもしれません。

いつだったか「誕生日は産んでくれた親に感謝する日」だという、親孝行の鏡みたいなフレーズが流行ったことがありました(私もそれに影響されて、親に花束を贈ったりしました)。今の私は、それはおかしなコントロールのキャンペーンだったなと感じます。

誕生日とは、この制限のある人間の人生に飛び込んできた魂の「勇気をたたえる日」、もしくは、無償の愛を体験することのできた親の側が「子どもに感謝を伝える日」だと思うのです。あるいは「大好きな人が生まれてきてくれたことを感謝し祝う日」でもあるでしょう。

親孝行?!

この世から「親孝行」という言葉をなくしたら、どれほど多くの人が自分に集中して幸せに生きることができるだろうと思うのです。親である人たちも、自分の中にある「親孝行しなくては」の気持ちをなくしたら、どれほど自由に軽やかに生きることができることでしょう。

誰かに尽くしたいとか、幸せにしたいとかは、内なる場所から自然に湧いてくる感情です。そこに本物の感謝の気持ちが湧いているなら、行動に移すことはやぶさかではありません。それは、感謝という名前の「無償の愛」です。親から子への場合もあれば、逆の場合もあるかもしれません。

しかし基本的には、親が無償の愛で子どもを育てることができたなら、その子どもは、自分の人生を精一杯生きることに夢中で、親のことなど考えることはあまりないことでしょう。

そして、我が子が自分の人生を生きるのに夢中であることを、ただただ嬉しく幸せに思うのが親であるはずです。なぜなら、親の仕事のゴールは「子どもの自立」だからです。親に気を遣う暇があったら、自分のことをしなさいね!と思うのが、無償の愛を体験した親の本音だと思うのです。

毒親になるのは傷ついた子ども

「母の日」「父の日」を負担に思う人がいなくならなければ、本当の意味での「母の日」「父の日」の存在意義はないでしょう。そして「毒親」という言葉は、親をカテゴライズするために生まれた言葉ではなくて、「親によって傷ついた自分」が存在することに気づくためにあるのだと考えます。

「毒親」は連鎖しますが、それは「傷ついた子ども」の連鎖です。身体が大人になっていても、自分の中に「傷ついた子ども」が存在していることに、多くの人が気がついていないように私は感じています。

そして悲しいことに、毒親と呼ばれる側から、子どもを癒すアクションは基本的には起こりません。なぜなら、毒親自身が「傷ついた子ども」のままでいるからです。それに気づかず、本当の自分を生きていない人が「毒親」になってしまっているからです。

鯖缶さんの姑さんも、私の実母も、傷ついた子どもの自分を癒さずに年齢を重ねた人たちだと言えるでしょう。そして彼女たちは、内側(自分自身)にそれを働きかけることを知らず、外側の人(つまり子や孫)を使って癒しを求めるという暴挙にでていると言ってもよいでしょう。

共感力の高い優しい人

自分と他人との境界線の薄い(共感力の高い)優しい人たちが、毒親と呼ばれる人からの影響をもろに受けがちです。親孝行が正義だとどこかで信じているからこそ、長年そのことに気づくことを無意識レベルで封印し、それによって生き辛さを感じたり、自身の人生に情熱を失ったりしてしまっているのは悲しいことです。

私たちは皆、自分の人生を何より慈しみ、喜びと情熱を持って生きることを願って生まれてきています。しかし、毒親と呼ばれる人たちは、そのことを知らないか、もしくは自分がそうできなかったので、我が子にも自分の人生を生きる事を二の次にさせてしまっている人たちです。

気づいた人から、自分の人生を尊重する生き方を始めなければなりません。親を説得する、教える、ことは多分無理です。まず、自分です。自分を大切にすることは、我儘になることではありません。なぜならそれが我儘になるような人は、もともと毒親問題などで悩みはしないからです。

「みんな調和して、みんな仲良し」は最高に決まっています。しかし、何かを変化させることができるのは、あくまで自分自身だけです。「調和・仲良し」のために自己犠牲をするのは本末転倒です。自分がまだ「傷ついていること」に気づき、それを癒し、「もう二度と自分を傷つかせない場所」に行くことが必要です。

「母の日」の美しい倍返し!

今回の鯖缶さんの姑さんのようなケースは極端かもしれませんが、あからさまの度合いが違うだけで、同じようなことを思っている毒親は多いのではないでしょうか?

かくいう私も、まだまだ発展途上の親で人間ですが、少なくとも、自分の中に沸き起こるざわつきは、目の前の人との間で起こっているように見えて、実はそうではないことには気づくようにしています。

こうして時々「毒親」に焦点をあてて考察しているのも、自分の認知のゆがみに気づき、親によって傷ついた自分を癒す努力をしたいと願っているからです。悲しみ、怒り、妬み、ざわつきが起こるときは、ある意味チャンスだと思っています。そういう反応が起こるときは、潜んでいた「過去の傷」が浮かび上がってきて、それを癒す機会が訪れているからです。

私は「母の日」は、世界中で、子どもから発せられる感謝に、更に親が感謝で倍返し(笑)する日になったらいいなと思っています。罪悪感で行動する人がどこにもいない「母の日」は、これ以上美しいものはないという素晴らしい日にきっとなるに違いないでしょう。