見出し画像

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(10)

厳島神社から見る毛利元就1

ここで、厳島合戦についての基礎資料となる、厳島神社の棚守であった房顕の記した覚書を見てみたい。

『棚守房顕覚書』

まず、旧宮島町発行の『棚守房顕覚書付解説』からその基本的情報を見ておきたい。棚守は厳島神社の奉行を行う職名だとのこと。本姓は厳島宮司家である佐伯で鞍職から二十五代目、景弘からは十五代目に当たるというが、正確には不明だという。陶氏、毛利氏、大内氏の御師職を兼ねていたということだが、社の奉行を行う棚守と代理で祈りを行う御師を兼ねるというのも不思議な気がするし、最終的に相争ったその三家の御師職を兼ねるというのもわかりにくいが、大旦那の御師となることで奉行の力を増そうということなのだろうか。特に厳島合戦では両家の御師を兼ねていながら厳島を合戦の舞台にされるというのは、面目丸潰れ、ということにはならなかったのだろうか。棚守の家は毛利家の定宿となっていたようだが、小早川隆景だけは違っていたという。しかし、隆景は房顕隠居の合力をしていたと二度も書いていることから、なんらかの特殊な関係にあった模様。景の通字は上下が違っても平安末期にに名をなした佐伯景広とつながるものであり、そこになんらかの文脈的繋がりがあったのかもしれない。

村上源氏・吉田との関わり

これは全くの個人的感覚であるが、名前で言うのならば、房顕というのは北畠親房、そして顕家という南北朝時代に南朝を支えた親子から名をとっていることになり、その文脈的繋がりの方がはるかに気になる。それは、瀬戸内の水軍がなぜ村上水軍と呼ばれているのかにもつながることではないかと感じる。また、南北朝時代には北畠親房とともに「後の三房」の一人に数えられた吉田定房という人物がおり、それは「前の三房」に含まれた吉田経房とともに日記の家としての甘露寺家流吉田家の名を高めた。この『棚守房顕覚書』では、毛利氏と吉田という地名を結びつけているが、それもこの文脈を踏まえている可能性がある。それについてはまた後ほど本文解析の中で検討したい。

写本と本文の信頼性

さて、この覚書自体についてだが、原本が厳島神社宮司家の野坂家に、そして厳島神社祠官の村田良穂氏による明治十七年の書写修補本、さらに『続々群書類従第四部史傳部』収録の大学史料編纂掛所蔵本があるという。奥書には天正八年とあるようだが、本文中にもそれ以降の日付があるということもあり、正確な年代は要検討であろう。

厳島神社の始まりの意味づけ

さて、では本文の検討に入ってゆきたい。まずは、厳島大明神が、年号は合わないとはいえ、推古天皇の時代にご来臨された、というところから始まる。推古天皇は『古事記』で最後に記載されている天皇で、そこで旧辞帝紀が途絶えていると言える。つまり、『日本書紀』で加えられた部分についてしっかり見ているぞ、というのがこの始まりの意味するところなのではないだろうか。それは特に、大明神となっていることからも、推古天皇以降に急激に力を増した仏教に対してちょっと違うぞ、という牽制をしているのではないか、という印象も受ける。

平清盛の扱い

ついで平清盛について書かれている。清盛は厳島神社の建て替えに関わったともされるが、ここではそのことについては触れられていない。むしろ悪行について子孫までは守り難しとしていることから、平家物語の「諸行無常」あたりの印象を強めようとしている感じを受ける。そして、平家から源氏への切り替えを促すために、平家について貶めているようにも見受けられる。

高倉院行幸

そしてそこからいよいよ項目立った本文に入ってゆく。まずは高倉院の御参詣ということで、これによって佐伯景弘の位が上がったことが記されている。ここにも清盛に敬称がついておらず、それを軽んじているように見受けられる。この参詣については、内大臣久我通親による『高倉院厳島御幸記』に詳しく書かれており、特に京都から厳島までの行程が書かれていることから、それによってその位置関係が特定できるという重大な意味を持っている。ここでは詳しくは触れられないが、私はこの時期の京都の位置ということに疑問を持っているのだが、この書にはその疑問を封じるのに十分とも言える情報が詰まっている。ただし、本文中に土御門宰相中将通親という名が出てくることから、本当にその書が通親によるものなのかについては疑問が残るし、そうなるとそこからさまざまな疑問が溢れてくることになる。この参詣から始まるということにおそらく大きな意味があるのでは、と考えられるが、今回はそこまで見ることができないので、とりあえずこの問題についてはここまでにしておきたい。

厳島神社造営

ついで、先には出てこなかった厳島神社の造営について書かれている。現金なもので、ここでは最初に清盛入道殿と、敬称付きで始まり、その後には清盛、頼盛、宗盛と、平家一門に敬称はつけていない。時期的にも先の参詣の記事とは前後しているようで、清盛が造営したのだ、ということにしないと上手くない理由があるようにも見受けられる。

平家滅亡

続いて平家滅亡について。二位尼と先帝が沈んだのが長門国の早伴(鞆)の沖となっている。関門海峡の一番狭いところでも沖なのだろうか。ついで、源氏の代となり、藤原親実が神主となったことが記されている。この神主交代は、承久の乱の大きな原因となっていると考えられるので、本来ならばもっと詳しく記されているべきなのだろうが、わずか三行で、「ソレ以後、當島色々ノ儀、書キ記スニ及バズ」として飛ばしている。

毛利氏についての記述

ここで昔語りは終わり、一気に天文年間まで進む。厳島神社自体を追うにはきちんと見てゆく必要があるのだろうが、ここでは毛利氏の動きに集中したいので、その関連記事だけを追ってゆきたい。まずは、神主興親が没した後に武田元重が攻めてきたとあり、最初は武田に敵対していた毛利・吉川が二、三年在陣の後に武田方に転じた、とあるが、その後すぐに元重が討ち死にしたとある。毛利・吉川牽制のための記事なのだろうか。

ついで、小方、友田の神主争いの記事で、毛利下野守が桜尾城の城番になったことが記されている。この辺り、敵味方の具合が分かりにくくなっていて、その解釈の違いを用いて分割統治的なことをしていたかもしれない。その後、大内義興が没する時の記事で佐東ノ毛利ノ陣という言葉が出てくる。佐東は、注には沼田郡とあり、その前には神領衆という言葉とともに出てくる。沼田は小早川の領地であり、毛利の郡山からはずいぶん距離がある。どうも、この本の内容で毛利という勢力が人造的に作られたのでは、という印象を持つ。

吉田についての検討

その後、天文九年、郡山合戦に当たるものだと考えられるが、吉田という地名が出てくるので、その場所を検討してみたい。

然ル處、大内左京大夫義隆、同恒持父子、ソノ外各々子年ノ正月九日、防府マデ出張アリ、次第々々ニ上ラル、尼子ノ石州マデ出張シ、子歳ノ九月四日ニ、吉田ノ三ツ井ニ至リ陣取リニ懸カル、
然ル間、義隆、恒持御父子ハ岩國ニ出張アリ、陶隆房、ソノ外、杉、内藤ノ諸勢ハ、同十月四日、警護船二三百艘ニテ當島ヘ参詣アリ、陶隆房ハ、棚守ノ宿ニテヒキハタシ、只一ゴンニテ則チ景舟アリ、ソノ夜ハ在ノ浦ニ舟懸カリ、未明ニ至リ海田ニ着キ給フ、
隆房ノ神前ノ儀ハ、両社ヘ御太刀二振、御神馬二匹ヲ御供ヘ御参ラセラレ候、名代トシテ伊香賀對馬守ヲ残置セラレ社詣ス、
海田ヨリ中コウリヲ打チ登リ、吉田ノ白豆ノ峠ニ陣ヲトリ、日々ノ合戦ナリ、

となっている。大内父子が防府に出向いて次第に東に向かい、尼子の石州までやってきて、吉田に陣取りにかかるという。つまり、吉田は石州にあったと読み取れ、そうなると国境近くの津和野が吉田であったという可能性が出てくる。津和野には弥栄神社があり、京都の八坂神社と同じ鷺舞が伝わっている。そして津和野からは安芸廿日市に抜ける津和野街道が走っており、厳島との関わりも十分に考えられる。吉田に陣を構えている間に厳島に参詣し、そこから再び(?)吉田に向かったという。吉田で合戦をしているのにずいぶんと悠長な日程に感じる。あるいは尼子ノ石州マデ出張シのところで主語が棚守房顕に変わっているか。そう考えた方が後とのつながりは良さそう。

然ル處ニ、吉田ノ御師職ヲ棚守房顕ニ仰セ付ケラレシ事ハ、陶隆房ノ使者トシテ、深野文祝ヲ以テノ調法ナリ、
同九月廿八日、熊野民部丞、石田六郎左衛門尉ヲ棚守房顕ノ使者トシテ、吉田ニ初メテ巻数ヲ上進セシ處、則チ元就ハ棚守ノ使両人ニ對面アリ、

陶隆房が吉田の御師を棚守房顕に命じ、それを受けて棚守房顕が吉田に使者を送り、その使者と元就が対面した、となっている。しかもこれは隆房が厳島に参詣する前の話で、何か色々と噛み合っていないように感じる。しかも、その後には戦がその同じ日に終わっているとの内容が書かれており、それでは大内勢はいったい何のために吉田に行ったのかがわからない。

十月二日ニ、吉田ヨリ祇園ノ神田、使トシテ来ル、櫻尾ノ事ハ防州ノ敵トモ見エズ、味方トモ見エザル間、彼ノ祇園ノ神田、世上ヲ忍ビタメラウ間、色々ノ御寄付、太刀一腰、刀料足千疋、吉田ヨリタマハル、

祇園神社の神田を厳島神社に寄進する、という事なのだろうか?櫻尾のこととは上に出てきた桜尾城での毛利の動きということなのだろうか。ためらっている間に吉田からの贈り物攻勢。尼子を撃退した後に祇園の神田を厳島神社御師を通じて寄進しようとし、さらに贈り物までする、というのはどういうことか。そして、御師の方でも大内方の陶を通じて御師になっていながら、向背定まらぬ相手からの寄進にどう対処しようか迷っている。そして大内方はいったいどういう意図で吉田に向かおうとしているのか。

同十月十日ニ、又熊野左馬助、石田彦左衛門尉ヲ吉田ヘ進ムル處ニ、同日吉田衆ハ尼子陣ヘ掛カル、三澤三郎左衛門尉ハ太男ニテ、太刀アルヲ光長四郎右衛門尉ガ討チ取リ、ソノ外雲州ノ衆数十人、吉田ヘ討チ取ル、粟屋、井上、児玉、各々高名セラル、ソノ外数ケ度ノ合戦アリトイヘドモ、城ノ衆ハ一度モフカクヲトラズ、

使者の名前が微妙に変わっている。とにかく吉田の活躍ぶりを記した、という感じ。その後も合戦の記述はあるが、要するに来るべき厳島の合戦に向けて、大内、陶、毛利の関係性を整理しているという感じを受ける。いずれにしても、このような御都合主義的な記述はほとんど信用に値せず、これを一時資料として語られる毛利氏の歴史というのは、神話の域を出るものではなさそう。

厳島神主家の扱い

その翌年には神主の興藤、廣就親子が桜尾城で討ち死にするが、何の感慨らしきものもなく、淡々と記述している。二手に分かれて対立していたとはいえ、本当に厳島神社と関係がある人物が著者なのか、ということすら疑われるような書き方だ。

毛利氏の参詣

しばらく経ってから「毛利殿當社御信心ノ事ハ、」として広元、興元の参詣について書かれている。ここには元就の名はなく、元就が毛利氏なのか、というのはここまで明らかになってはいない。棚守房顕を備後中山に召さるる間、吉田の小山西浦の事、厳島に寄進あるべし、との記述があり、つまり、毛利氏は拠点が備後で、吉田は姓不明の元就に任せていた、という読み方もできそう。その方が沼田郡佐東で毛利氏の名が出てきたこととは通じる。只、備後から石州吉田はずいぶん距離がある。吉田という地名についてはできる限り幅を持たせてどこにでも置けるように、と曖昧な書き方をしているようにも感じる。少し前に卜部兼右の来島について書かれていたのも、吉田をどう使うかという知恵の一環なのかもしれない。

大三島・大山祇神社の可能性

なお、沼田郡や備後が主たる舞台だったとすると、當島とあるのは大三島で、當社というのが大山祇神社である可能性も十分に考慮すべきだろう。その方が、村上源氏的な名前と、村上水軍の存在を考えた時には意味が通りやすそう。そして、書き方を曖昧にすることでそれを宮島と厳島神社であると意図的に勘違いさせ、それによって吉田の場所を東に移した、という考え方もできるのかもしれない。

こうしてみると、この『棚守房顕覚書』は、なるべく先入観を排除して、さまざまな可能性を考えながら読んでみると、非常に味の出てくる興味深い文献だといえそう。次回ももう少しこれを読むことになりそう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。