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【ニクソン・ショックを探る】大躍進政策

反右派闘争がなぜそのように誇張されていったか、という理由に、その後に起こった大躍進政策の失敗ということがある。

大躍進政策とは、1957年の反右派闘争で党内主導権を得た中国共産党中央委員会主席毛沢東の指導の下、1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策である。
反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は数年間で核武装や高度経済成長によって先進国であるアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追い越すと宣言。しかし、現実を無視した手法と多数の人民を処刑死・拷問死させるなどの権力闘争のために中国国内で大混乱を招き、大飢饉(1,500万〜5,500万人が死亡)と産業・インフラ・環境の大破壊を起こし、多数の死者を出した社会主義政策である。

とされるが、これもやはり詳細な検討が必要になりそう。

大躍進前の状況

56年には、ようやく長く続いた内戦、政治闘争の時期が終わり、「百花斉放百家争鳴」によって共産党のくびきからも解き放されつつあった。そんな中で、工業も急速な発展を遂げ、工業の発展速度は年々日で31%増加したという。そして翌57年もそれなりの成長を遂げ、

1957年大陆国民经济发展取得一定程度提高,财政收支增长,取得平衡还有结余。归还前一年向银行透支款6亿,还增拨给银行信贷资金9亿元。货币流通量比上年降低4.5亿。基本达到财政、物资、信贷平衡,市场趋于稳定。工农业产值较上年增长10%,超过计划4.1%。农业产值增加了20亿元,但未能达到计划的4.9%的增长率。粮食只达到3700亿斤(不含大豆),比计划低出120亿斤,但仍比上年增加50亿斤。1957年被认为是建国以后效果最好的年份之一( 丛进. 曲折发展的岁月. 人民出版社. 2009-05-01: 75–80. ISBN 9787010078649 (中文(简体))。

銀行からの借り入れの6億を返済し、逆に銀行への信用貸付が9億元となった。これによって貨幣流通量が前年比で4.5億減り、インフレ抑制を行なった。つまり、前年の31%増とは、インフレによる効果をかなり含んだもので、それに対して57年の10%増という数字は非常に穏当で、ようやく経済運営が軌道に乗ってきたことを意味する。実際それは計画を4.1%上回ったものだった。一方で農業生産は20億元増えたが、計画の4.9%増には達しなかった。大豆を除いた穀物生産は3700億斤(1.85億トン)で前年を50億斤(250万トン)上回ったものの、計画には120億(600万トン)及ばなかった。それでも57年は建国以来最も良かった年の一つとされる。

毛沢東と劉少奇の反撃

にもかかわらず、毛沢東は9月から10月にかけての中国共産党第8回中央委員会第3回全体会議でその成果を批判した。これは、7月の青島会議で「右派」の処分について鄧小平に釘を刺された後のことだった。

但毛泽东本人却并不以为然,他从1957年工业发展速度(10%)不及上年(31%),农业未能达到计划出发,得出结论:1956年反冒进反错了,在经济和政治上都产生了不良后果——1957年9月至10月的中共八届三中全会上,毛泽东对1956年的反冒进提出了批评。他说:1956年经济文化有了一个很大的跃进,可是有些同志低估了成绩,夸大了缺点,说冒进了,吹起了一股风,把多快好省、农业纲要四十条、“促进会”几个东西都吹掉了,影响了今年的经济建设特别是农业的进展,给群众泼了凉水。他申明:多快好省、四十条、促进会必须恢复。此外还提出“我们是不是可以把苏联走过的弯路避开,比苏联搞的速度更要快一点,比苏联的质量更要好一点?应当争取这个可能。(毛泽东. 做革命的促进派. 1957-10-09 (中文).)”
しかし、毛沢東自身は納得しておらず、1957年の産業発展率(10%)が前年(31%)を下回り、農業も計画を達成できなかったことから、1956年の反冒険的キャンペーンは間違っていたと結論づけ、経済的にも政治的にも悪影響を及ぼした。-- 1957年9~10月の中国共産党第8期中央委員会第3回全体会議で、毛沢東は1956年の反冒険的な進歩を批判した。
彼は、”1956年、経済文化の大躍進があったが、一部の同志は成果を過小評価し、欠点を誇張して、冒険主義が風を吹かせ、より多くの速度とより良い貯蓄、農業計画の40条、「促進会」などのいくつかのものを吹き飛ばし、今年の経済建設、特に農業の進展に影響を与え、大衆に冷や水を浴びせた”と述べた。
また、”四十条と「促進会」を復活させなければならない。” と断言した。
さらに、”ソ連が通った回り道を避けて、ソ連より少し早く、ソ連より少し質の良いものにできないか? この可能性を追求する必要があります。"という提案もなされた。(DeepL翻訳より、一部手修正。以下同様)

そして、ちょっと会議名や日程がよくわからないので何とも言えないが、同時に開かれていたのかもしれない八大二次会议(第8回党大会第2回会議?)で周恩来が吊し上げられ、劉少奇が毛に雷同したことで、大躍進政策が始まったという。実質的には毛は渡された原稿を読んでいただけで、劉少奇が仕掛けた政争だと言って良いのではないか。劉少奇はのちの文化大革命で走資派として追われるわけで、毛に雷同して主犯格扱いされるのはおかしなものなので、おそらく劉が仕掛けたのではないかと感じる。それについては後からもう少し触れる。

周の言葉尻を捕らえる毛

また、これに先立って、

中共中央副主席、国务院总理周恩来在1957年6月26日一届人大四次会议的政府工作报告上批驳了1956年全面冒进了的观点,也表示不同意“1957年又全面冒退了”的说法。他在肯定1956年成绩时,使用了1956年“采取了跃进的步骤”、“有了一个跃进的发展”的说法,这是中共最初使用“跃进”一词(薄一波. 《深切怀念敬爱的周总理》. 北京日报. 1979-01-08 (中文(简体))
(有一次,毛主席见到我们,问我们大跃进是谁发明的?还很风趣地说,要颁发奖章。总理笑了笑,没有说话,同志们讲是周总理在一篇报告中提出的。)。
中国共産党中央委員会副委員長・国務院総理の周恩来は、1957年6月26日の第1回全国人民代表大会第4回会議での政府の仕事に関する報告の中で、「1956年に本格的な前進があった」という見解に反論し、「1957年に本格的な後退があった」という表現には同意しないと表明した。
1956年の成果を肯定する際に、「躍進的措置をとる」、「同じ躍進的発展があった」という言葉を使った。 中国共産党が「躍進」という言葉を使ったのはこれが初めてである。
(あるとき、毛沢東が私たちに会ったとき、「大躍進を発明したのは誰か」と聞いてきました。 また、「メダルを授与したい」と、とても楽しそうに語っていた。 首相は笑って何も言わず、同志たちは、報告書の中で提案したのは周首相だったと教えてくれた。)

ということで、周恩来が56年の発展について使った言葉の言葉尻を捕らえて、大躍進の責任を周になすりつけようとしている。なお、これを伝えた薄一波の息子が薄熙来で、2013年に重慶市総書記を失脚する事件の主人公となっている。政争が60年、世代を跨いで続いていたのかもしれない。

人民日報の対応

11月13日に人民日報に《发动全民讨论四十条纲要,掀起农业生产的新高潮》という題の社説が掲載され、幹部が地方で働くことを奨励した。

“1956年公布农业发展纲要草案后,曾经鼓舞了广大农民的生产热情,造成了全国农业生产的高潮,但是,有些人却把这一高潮看成了“冒进”,他们害了右倾保守的毛病,像蜗牛一样地爬行得很慢;有右倾保守思想的人,不了解在农业合作化后我们就有条件也有必要在生产战线上来一个大的跃进。”
”1956年に農業開発計画案が発表されたことで、膨大な数の農民の生産への熱意が高まり、農業生産のクライマックスが生まれた。 しかし、このクライマックスを「冒険」と捉え、右寄りの保守主義に陥り、カタツムリのように非常にゆっくりとした歩みをしている人たちがいた。右寄りの保守的な考えを持つ人たちは、農協化後、生産面で大きな飛躍をする条件と必要性があることを理解していない。 "

として、毛沢東の反右派闘争による、右派の労働による再教育、と言った話を、幹部に農村に入るよう奨める報道として切り返したのではないかと考えられる。そして12月には第一回杭州会議が、明けて1月には第二回杭州会議が開催された。これによって、《1956年到1967年全国农业发展纲要(草案)》(简称《纲要》或“四十条”)が定まったとされ、おそらく単なる農業生産共同組合であった「合作社」が、工業、農業、商業、学校(文化・教育)、民兵(軍事)の各組織、地方行政機関の行政権能をも一体化して結びつけ、集団生産、集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指した「人民公社」に切り替わったのがこの会議ではないかと考えられる。

劉少奇と毛沢東の怪しい動き

この後1月8日に、劉少奇が委員長を務める1期全国人大常務委員会91回会議での審議と採択を経て、同日、新中国で初めての統一的な戸籍管理法規である『戸口登記管理条例』が公布され、公民の住居登録によって移動に制限がかかるようになった。11日からは毛沢東が議長を務める南寧会議が始まり、あまり意味があるとも思えない、作業方法を列挙した《工作方法六十條(草案)》が作られ、その中で、国を挙げて15年以内に、鉄鋼をはじめとする主要工業製品で英国に追いつけ、追い越せというスローガンを掲げた(工作方法六十条(草案))。さらに南寧会議では、三峡ダム建設についての議題も出たとされ(一九五八年の南寧会議と三峡ダム計画)、野心的というべきか、無謀というべきか、そう言った計画を毛沢東が主導していた。なお、杭州会議から南寧会議まではわずか1週間しかなく、その間に、どこで開かれたかはわからないが、1期全国人大常務委員会に周や毛が出席できていたか、というのは、その距離、そして当時の移動手段を考えて、かなり疑問が残る。つまり、『戸口登記管理条例』については劉少奇が独断で進めた可能性がある。さらに言えば、毛沢東は第二回杭州会議には出席していない可能性があり、そうすると、自分は正月を挟んでさっさと南寧に移動し、周恩来が農業がテーマとなっていた杭州会議をまとめている間に、一方で劉少奇が戸籍についての話を、そしてもう一方では毛が工業化についての話を進め、南寧会議には周も出席させてその了解を得させた、というかなりの圧力をかけていたことになる。

人民日報の暴走

そして5月25日には中国共産党第8回五中全会が北京で行われ、中央委員会副主席、政治局常務委員に林彪を選んだ(第8回党大会)。この五中全会で譚震林が政治局委員に任命されており、その譚は「大躍進」というスローガンを提案したとされる( 中共中央文獻研究室,逄先知、金沖及主編 (编). 《毛澤東傳(第四卷)》 香港第一版. 香港: 中和出版. 2011. ISBN 978-988-15116-8-3.)。そのあたりから、人民日報が急激に飛ばし記事のようなものを流し始める。

1958年6月8日,人民日报开始报道虚假新闻,称“河南省遂平县卫星农业社5亩小麦平均亩产达到2105斤。”6月12日,再报道该社放出的第二颗农业“卫星”——“2.9亩小麦试验田,亩产达3530斤。”6月23日,报道湖北省谷城县先锋农业社小麦试验田亩产4689斤。7月12日,报道河南省西平县城关镇和平农业社2亩小麦创亩产7320斤的记录。7月18日,发表福建省闽侯县连坂农业社2.6亩早稻试验田亩产5806斤。7月31日,报道湖北省应城县春光农业社生产队长甘银发种的早稻平均亩产10597斤。
8月13日,报道毛泽东在山东历城县北园乡北园农业社视察丰产田时,知道该社50亩高额丰产田,计划亩产两万斤,争取亩产四万斤后,高兴地表扬该社社主任说:“好,你这个人,不干就不干,一幹就幹大的。” 同日,还报道湖北省麻城县溪河乡建国一社出现“天下第一田”,早稻亩产36956斤;福建省南安县胜利乡海星社亩产花生10353斤;并发表了《祝早稻花生双星高照》的社论,提出了“人有多大的胆,地有多大的产”的口号。8月27日,发表署名文章《人有多大胆,地有多大产》称:山东省寿张县“提5000斤指标的已经很少。至于亩产1000-2000斤,根本没有提了。”[來源請求]
9月1日,发表《徐水人民公社颂》,文章称“茂盛无比”的小麦亩产12万斤,“花团锦簇”的山药亩产达120万斤,一棵硕大无朋的白菜重达500斤,棉花的产量也“如卫星般地震动湖海山川”。[8]9月5日,报道广东省连县1.73亩中稻亩产60437斤。[9]
从8月1日到9月5日,《人民日报》报道的各种高产“卫星”多达34个。[10]

訳は特につけないが、とにかく急速に御用メディア化していった。これは、人民公社の導入に対して人民日報がかなり入れ込み、それによって後戻りが効かなくなったのを、おそらく毛沢東による論功行賞で担当政治局委員となった譚震林がうまく煽ったのではないか、と考えられる。というのは、その5月25日に、毛は政治局の同志に対して以下のように書き送っているとされるからだ。

“重看1957年11月13日人民日报社论,觉得有味,主题明确,气度从容,分析正确,任务清楚。官方媒体上,以‘跃进’一词代替‘冒进’一词从此篇起。”
「1957年11月13日付の人民日報の社説を読み直してみると、味があり、テーマが明確で、冷静で、分析が正しく、使命が明確であることがわかりました。 公式メディアでは、この記事以降、「冒进」という言葉の代わりに「跃进」という言葉を使いましょう。"

皮肉に満ちた、というか、政治巧者というか、とにかく周恩来も、人民日報も、完全に毛沢東にはめられたことになる。

大躍進の進行

いずれにしても、これによって、毛は美味しい工業生産を自分の手柄とし、相対的にうまくいっていない農業を周恩来に押し付けようとしたのであろう。農業においては、虚偽の報告が相次ぎ、数字は全く実態を反映しないものとなった。そう言った記事が人民日報や新華社の紙面を覆い尽くし、そして公式となったそのような虚偽の報告に基づいて国家が徴収した穀物の量は、実際の生産量を大幅に上回り、不足分を補うために農民の配給物までもが徴収され、農民と末端幹部との対立を直接的に悪化させ、その後の災厄の主な原因となった。
これはどこまで本当なのかわからないが、いくつか抜粋してみたい。

在农村,也修建了土法的炼钢炉,企图在田间炼钢铁。很多人把家里的锅子,铁器等金属都捐献出来煉钢铁,但由於技術不合規格,只是煉出大量的廢鐵,造成極大的浪費,並對環境造成極大污染。
煉鋼需要鐵礦、焦炭、燃料等材料。由於鐵礦不足,於是全民不下田耕作,全都上山採礦,使糧食產量大減。由於燃料不足,只好上山伐林,把一座又一座青山砍得光光,引發日後的天災,所以這些天災都是屬於人為的。
田舎では、田んぼの中で鉄を作ろうと、自前の製鋼炉が作られた。 多くの人が家にある鍋や鉄などを寄付して鉄を作っていたが、技術が追いついていなかったため、大量の鉄くずしかできず、結果的に大きなゴミとなり、環境を大きく汚染していた。鉄を作るには、鉄鉱石、コークス、燃料などが必要だった。 鉄鉱石が不足していたため、国民全員が畑を離れて山に行って採掘しなければならず、食糧の生産量が大幅に減少したのです。 燃料が不足すると、山の森林が伐採され、将来的に自然災害が発生するようになった。

という。

据统计,1960年,粮食实产2870亿斤,比1957年3901亿减少26%以上;棉花实产2126万担,比1957年3280万担减少了35%以上;油料作物实产3405万担,比1957年7542万担减少一半多;猪的年底存栏数为8227万头,比1957年14590万头减少56%;大牲畜年底饲养量7336万头,比1957年的8382万头减少12.5%.整体上退回到了1951年的水平,油料作物仅为1951年的一半
統計によると、1960年の穀物の実生産量は2870億斤(1.435億トン)で、1957年の3901億斤(約1.95億トン)より26%以上少なく、綿花の実生産量は2126万担(106.3万トン)で、1957年の3280万担(164万トン)より35%以上少なく、油糧作物の実生産量は3405万担(約170万トン)で、1957年の7542万担(377.1万トン)の半分以下で、年末の豚の在庫は 1957年の1億4,590万頭から56%減の8,227万頭。年末の大型家畜の飼育頭数は7,336万頭で、1957年の8,382万頭から12.5%減となった。 全体的には1951年の水準にまで落ち込み、石油の収穫量は1951年の半分程度にとどまった。

一方で、1958年から1960年にかけて、新規資本建設投資は毎年100億元以上に達し、1960年には384億元となり、前年比11%増、1957年の1.8倍となった。せっかく57年に財政を黒字化させたのだが、これで再び悪化したのでは、と考えられる。そして、工業生産の歩留まりは非常に悪く、製鉄業での適格比率は7割程度であった。そして生産目標も未達が続き、1959年の鉄鋼生産目標3,000万トンを約1,800万トンに引き下げざるを得なかった。そこまでしても、 新華社通信の《内参》によると、1959年1月以降、鉄鋼生産量の目標は毎月達成できなかったという。これにより58年の国産製鉄の損失は50億元となり、補助金という莫大な財政コストがかかっていた。 また、森林などの天然資源は乱獲され、甚大な被害を受けたという。そして、大規模な工業化や製鉄によって大量の労働力が求められたことも相まって、広い範囲で作物の収穫が間に合わず、広い範囲で畑が荒れてしまった。中国共産党農村工作部中央委員会の計算によると、控えめに見積もっても1958年には10%の作物が回収できていなかったという。一方、地方の指導者や幹部は、右傾化の烙印を押されることを恐れて、報告を隠したり、報告しなかったりしたが、中央政府は人民公社を依然として褒め続けた。

大躍進の帰結

1960年1月7日から1月17日まで、毛沢東は上海で中央政治局拡大会議を開催し、1960年の鉄鋼生産量1,849万トン、穀物生産量6,000億斤という非現実的な目標を確定した。産業の急速な拡大と農村労働者の都市への流入により、農村と都市の食糧不足はますます深刻になっており、60年の10月以降、いくつかの村で餓死者が出たという報告も上がってきた。各方面から発表された不自然な死の数は約4,500万人、そのうち四川省だけで1,000万人の不自然な死があったとされる。

中国大陆徐涤新主编《当代中国的人口》提供的数据,1959年到1961年非正常死亡人数约为2144万人。而早在1958年非正常死亡就已出现,如四川、山东、河南、甘肃当年则高达21.11‰、个别省份则延续到1962年(四川省1958-1962年平均死亡率达34.03‰。普通死亡率则仅为7.02‰)据此,中共中央党校教授林蕴晖做出结论,从1958年到1962年间,中国因大跃进运动导致的非正常死亡人数,约在3000万左右[51]。另外,根据另外一位新华社记者杨继绳的计算,大饥荒饿死国人为3600万[65]。香港大學人文學院講座教授馮客在2010年9月出版的《毛澤東的大饑荒:1958-1962年的中國浩劫史》指出,他用了4年遍閱全國解封檔案,認為大跃进造成4500万人非正常死亡。[66]国家计生委和国家统计局下达的国家级课题,以及西安交大的蒋正华计算结果,是1700多万。据当年的粮食部办公厅主任周伯萍称,他和国家统计局局长贾启允、粮食部长陈国栋做了一个电话调查,得出一个死亡几千万的人数,送交周恩来审阅后周要求销毁。

と、あまりに多くの数字が出ていて、何を信じるべきかわからないが、周恩来が数千万人という数字を廃棄するよう求めたということは、多分実数はそんなに多くなかったのだと思う。これは、先にあげた劉少奇の戸籍の関係なのだろう。住所は一つしか持つことができず、農村から都市への移動は禁止されていた。しかしながら、産業においては労働力不足であり、そして投資も産業に集中したために、そちらに人が流れるのは当然のことだ。そこで、農村戸籍の方では死んだことにして、都市部への人口流入が急増した、と見るのが自然なのではないか。そうでなくとも、戸籍ができたばかりで、一体何と比較して人数の増減を見ているのか、という問題もある。47年、中華民国の時代に4.55億人だったのが、60年に6.67億人と、戦後の混乱があったとは言え、2億人以上も増えているという統計で、その後のトレンドを見ると、その数字自体ちょっと盛り気味であるようにも見受けられ、それを適正化する過程でそれがこの大躍進のせいにされた、ということもありそう。農業政策の責任者が周恩来だったとすると、そこに責任を押し付けるために数字が守られていた可能性も大いにある。生産の減退自体は間違いなくあったと思われるが、餓死者が出る、というほどのことではなかったのではないか。むしろ、人手不足で収穫できなかったとすれば、手元の食料は十分だったと考える方が適切だろう。飢え死にするのに収穫しない、などというのは考えにくい。まあ、中国は広いので、さまざまな状況はあったのだろうが、全体としてそこまで多くの餓死者が出た、というのは多分ないだろう(グラフで見る中国の人口推移(過去と未来・将来の推測まで)と一覧表)。

1960年7月5日~8月10日 中国共産党中央委員会は北戴河で実務会議を開き、中国の経済調整問題を検討し、資本建設の圧縮や農業生産の確保などの方策を決定した。 1961年1月14日 中国共産党第8期第9回全体会議で「調整、強化、充実、引き上げ」の方針が採択され、大躍進運動はついに終焉を迎えた。

結局数字以外に実質的な混乱が見られなかったということは、毛沢東と劉少奇による周恩来追い落とし作戦は、ひとまず失敗に終わったと言えるのだろう。

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