小田原紀行

2023年9月1日、関東大震災から100年目の日、小田原にいた。
関東大震災とは一体なんだったのか、というのはいまだになんとも結論づけ難いが、それでも山にピッタリとくっつくように城砦跡が連なる小田原という街を見ると、山に封じ込めて守らないといけないなんらかの秘密がひしひしと感じられる。

小田原と後北条氏

小田原という街、そして城の成り立ちは、現在においては、北条早雲に始まるとされる後北条氏と切っても切れない関係で語られている。しかしながら、それは小田原にとって本当の記憶なのだろうか。備中伊勢氏から出ているともされる後北条氏だが、仮に鎌倉幕府の執権家である北条氏の存在感が大きなものであったのならば、そのような余所者においそれと北条の名を使わせる、ということは許されないであろう。だからこそ北条氏滅亡後200年近く、北条の名は完全に歴史の舞台から消え去ってしまっていたのではないだろうか。それが、突然よそ者がやってきて、今日から北条を名乗る、などと言って、果たして在地の人々は受け入れるものなのだろうか。

地理的条件から見る小田原

北条早雲は、駿河方面から箱根の山を越えて小田原に入ったとされる。駿河から相模方面に入ろうとするのならば、箱根の山を越えるよりも、今のJR御殿場線に沿うように北に迂回して酒匂川を伝って相模に入り、今の小田急線沿いに松田あたりから武蔵方面に向かうか、もう少し下流まで出ていわゆる東海道沿いを鎌倉方面に向かうか、というのが合理的に考えられる経路であり、その時に小田原にはわざわざ寄るという選択肢すら浮上しそうもない、交通という点で言えば全くの僻地に当たる場所にある。今でこそ東海道新幹線や在来線が通っているのであたかも交通の要衝のように感じられるかもしれないが、そんなところに城を作ったところで、三方が原の合戦で浜松を迂回して通過しようとした武田信玄と同じように、無視されるのがオチであるという見方ができる。にも関わらず、そこに街道筋を扼す惣構えの城を作るなどというのはどうみても理に適わないし、そして豊臣秀吉にしてもそんなところを大軍を率いて取り囲んで戦うなどというのは明らかに無駄で、そのほかの関東を平定してしまえば勝手に落ちるか、そうでなくとも完全に無力化することは可能だっただろう。そのように、小田原というのは、地形的にみる限りにおいては、関東の支配者の城を構える場所としては全くもって不適切であると考えざるを得ない。

小田原から推測する西国勢力の東国入り

その小田原がこのように天下の名城として取り上げられている理由には二つの可能性が考えられる。一つには、西国勢力が関東入りした際に、守りの堅かった酒匂川筋を避けて無理をして箱根越えをして小田原に拠点を構え、そこにこもらざるを得ない時期がかなり長く続いた可能性、そしてもう一つは関東、特に南関東の諸勢力が箱根を迂回して北関東から入ってきた勢力に対して最後に追い詰められて箱根を背後に最後の抵抗戦を試みた場所であるという可能性だ。前者ならば、たとえ早雲が小田原に入ったとしても、その後の関東平定にはかなりの時間がかかったということを示唆する。
一方で、後者の可能性であるが、小田原が北条氏の本拠であったという話をそのまま受け入れるならば、箱根越えをして相模入りしたはずの北条氏からそれに替わった徳川氏、そしてその後の首都東京という時代の流れの中で、もし仮にありうるのだとしたら、明治維新後に江戸城明け渡しをし、それに納得できなかった勢力が小田原周辺で抵抗をした、ということが考えられる。官軍の経路は海路での江戸入りとされ、小田原は通過しなかったことになる。つまり、小田原付近の抵抗があまりに激しく、官軍だけではどうにもならないように追い込まれていたことがわかる。いずれにしても、小田原周辺は、廃藩置県後に小田原県となった後、伊豆と一緒になり足柄県となっており、直接神奈川県になったわけではない。ここに、小田原と伊豆箱根との強いつながりが見て取れ、その歴史的流れを無視しては、小田原の秘密は解けそうもない。

小田原は本当に小田原だったのか

さて、その小田原城であるが、元々は、大森氏が入っていたのを、北条早雲がそれを打ち滅ぼして小田原城主となったとされる。その構えから見ると、大森氏は東からくる敵から箱根、そして伊豆を守るためにそこに城を築いたのだと考えられ、そのように大事にしていた箱根を越えてやってきた北条早雲に易々と城を取られるというのは簡単には納得しづらい。そこでもしかしたら、この話は別のところの話なのではないかという想像もしてみたくなる。

大森氏から考える後北条氏の舞台

そこで、大森という姓を考えてみると、森は盛につながり、平家と関わるのではないか、とも考えられそう。そしてそれは、鎌倉時代の執権家である北条氏とも繋がってくることになる。そうなると、平家が元々強い基盤を有していた瀬戸内、広島あたりが舞台となって、この北条早雲による小田原奪りの話が考案されていたということは考えられないだろうか。早雲は備中伊勢氏の出身とされ、備中から備後にかけては土地勘もありそう。そして広島の東部には、相模出身ともされる土肥氏、とりわけその支流とされる小早川氏が大きな力を持っており、毛利の両川の一角を占めている。小田原城は、その本城である三原城のことだったという可能性もあるが、よりそれらしいのは、戦国期にほとんど存在感がなく、そして10万石の城としては少し立派すぎるように感じられる備後福山にある福山城だ。福山城にまつわる話自体は別で詳しく検討するとして、問題は、福山藩から代わった福山県が、廃藩置県後間もなく小田県と名を変えていることだ。関東平野の端っこにある現在の小田原に比べ、山がちで平地の少ない備後地方においては、小田県にある平野として、福山よりも小田原という名の方がもしかしたら落ち着きが良いのかもしれない。この小田県はのちに備後6郡が広島県に、そして備中は北条県と一緒に岡山県に統合されることになる。この流れを見ても、後北条氏の話が明治維新期に備後周辺で発展し、それが最終的に今の小田原に移ってきた、という可能性は否定できないのではないだろうか。
そうなると、なぜ今の小田原に移ってきたのか、ということになるが、それはやはり足柄県以来の伊豆箱根地方の独立心の強さに手を焼き、もともと西国にあったのかもしれない鎌倉幕府の話、そして後北条氏の話を持ち込むことで懐柔し、なんとか開発主導で既成事実化しようとしているのではないか、ということが考えられそうだ。

小田原藩主家

そんな小田原の江戸時代の藩主家は、大久保氏、阿部氏、稲葉氏、そして再び大久保氏となる。阿部氏は、大名家とは別系統であるが、守山崩れで家康の祖父清康を殺害した阿部正豊がいる。家康の後の二代将軍は秀忠で、前後の違いはあるが大久保氏と同じく忠の通字を持っている。康系の家康と忠系の秀忠はあまり良い関係ではなく、そして正豊の叔父定次の婿養子として大久保氏から忠政が入っている。すなわち、大久保氏は康系の祖とも言える清康を殺害したことで家の名が残っている阿部氏に婿養子に入ることでその話を保持し、そして当然大久保忠教が著したとされる『三河物語』でもそのことに触れられることになり、そしてそれは徳川に対して強いカードを持ったことを意味する。
一方、稲葉氏は、三代将軍家光の乳母春日局を輩出した家で、美濃斎藤氏の家臣西美濃三人衆の一人稲葉一鉄の流れを汲んでおり、そのため織田信長との関わりが非常に強く、それによって織田と徳川を強く結びつける役割を担っているとも言えそうだ。二代秀忠から三代家光では、前の通字が秀吉の秀から家康の家に戻っており、忠系の大久保としては主流から外れる大ピンチを迎えたと言える。
この織田と徳川の関わりで問題になるのが、家康の長男である信康となる。信康は、家康と築山御前との間に生まれた嫡男で信長の娘を妻としていたが、信長と家康との間のなんらかの事情に絡んだとも言われ、自害に追い込まれたとされる。その話について詳しく書かれているのが、信頼性はあまり高くないとされるが、再び『三河物語』となる。それによると、信康は大久保氏が城主を務める遠州二俣城に送られ、最終的にはそこで切腹したという。このように、小田原藩主は大久保忠教による『三河物語』での、徳川氏の康系の扱いを反映したものになっており、そして小田原藩主は家康と信長との関わりを補強するということをその重要な役割としていたと考えられる。こうして、『三河物語』を武器として、大久保氏は徳川の流れの変化をうまく生き延びたのかもしれない。
その背景を考えてみると、大久保氏の本家である宇都宮氏は嘉禄の法難に関わるなど浄土宗との繋がりが深く、その支流である大久保氏が日蓮宗となる理由はなかなか見出し難い。そこで家康や信長と一向一揆との戦いというストーリーを展開することによって浄土系から距離を置くという路線に切り替え、それをきっかけにして、最終的に定宿としていた日蓮宗の本能寺で討たれることになった信長にかこつけて、大久保氏も日蓮宗であったという路線をとることになったのではないだろうか。
大久保氏による小田原支配の実体がどの程度あったかは分からず、また、大久保氏は途中富士山の噴火で領内の管理ができなくなり、幕府に一部の管轄権を譲ったという。これはおそらく小田県で進めていた小田原話がうまくいかなくなり、結局広島と岡山に分割されたことを意味しているのではないかと考えられ、その後西南戦争を挟んで大久保利通が暗殺されたというところでその路線が一旦頓挫したということを示唆しているのではないか。

小田原と関東大震災

維新後の小田原は異常なほどに戦前・戦後の政財界人を惹きつけている。小田原三茶人と呼ばれる益田鈍翁(孝、三井物産の創設者)、野崎幻庵(廣太、日本経済新聞の元となる中外物価新報の創設者)、松永耳庵(安左ヱ門、電力の鬼)をはじめとして、実業家で大倉財閥の創始者大倉喜八郎、吉田茂の懐刀として知られる白洲次郎らの財界人、そして政治家では明治の元勲山縣有朋が知られている。これらがみな本当に現在の小田原に関わったのか、というのはなんとも言い難く、もしかしたら備後福山のことであったかもしれない。一方この仮説はあまりに荒唐無稽と言われるかもしれないが、関東大震災の前年に亡くなった山縣有朋が小田原で亡くなったというのが事実であるのならば、小田原で睨みを効かせていた山縣が亡くなったことで、関東地方に一気に近代化の波が押し寄せ、その激変を関東大震災として象徴的に表さざるを得なかった、ということもあるのではないか、と感じた。その場合、おそらく関東大震災のその矛盾を小田原に封じ込めるような形で、関東大震災があったから関東は荒廃しただけで、それ以前から明治新政府の支配の下で、とくに東京は維新後ずっと日本の首都だったのだ、という話を固定化させているのだと言えるのではないだろうか。そして本当は、東京の開発はこの関東大震災の話をもって奇貨としたものではなかったか。

小田原社会についての解釈

戦前には、小田原を中心とした足柄県北部は非常に管理のし難い難治の地であったのだと考えられる。それが、ようやく鉄道が通ったりした後、昭和15年に市制が敷かれ、益田孝の息子とされる信世が市長となったところで鎌倉時代以来の西日本の話が一気に小田原に流れ込み、それによって関東の歴史観が大変動を起こして、もしかしたらそのためもあって翌年に太平洋戦争の開戦に至らざるを得なくなったということも考えられるのかもしれない。そして、偶然なのか、終戦の日と同日に小田原は空襲を受け、廃墟と化した。そこから過去が全て幻の如くなり、新生小田原市が歩みを始めることになる。その後、昭和26(1951)年に小田原大火が起きる頃までの動乱の時代、おそらく社会党書記長片山哲の選挙区でもあった小田原は日本政局の中心にあったのではないかと考えられる。

小田原の歴史を知る博物館

小田原には城内の一角に非常に良くできた小田原市郷土文化館がある。特に自然誌の展示が充実しており、現地の動植物をはじめとした自然が強い愛着を感じさせられる形で展示されており、郷土に対する大きな誇りと愛情を感じた。それは、後北条氏などに代表される典型的な歴史観とは距離を置いたものであり、誇りの原点をそのように作られた歴史ではなく、身近な自然に置いたものであると明確に意志表示しており、大変好ましく感じられた。しかしながら、その小田原の人々の健全な郷土愛の上に構築した嘘話をいまだに利用して、それを権力の大きな源泉としている輩がいるというという現実は忘れてはならないのだろう。

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