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広島から臨む未来、広島から振り返る歴史(3)

未来を臨み、歴史を顧みる

昨日までで、広島サミット後に見えてきた風景を、主としてそこではあまり議論にならなかった経済的な側面から見てみたが、今noteではせっかく創作大賞を開催されているということで、『広島から臨む未来、広島から振り返る歴史』、というような内容で、未来についてと歴史についてを交互に書いてゆくような、いわばVisionary EssayとNonfictional-Fictionの組み合わせのような二本立て連載を書けるところまで書いてみようと思いついた。何が書けるのか、どこまで続けられるのかは全く見当もつかないが、とにかく行けるところまで行ってみたいと思う。
まずは未来と歴史を分岐させるところ。何とかうまくいくと良いが。

広島の歴史の重み

広島というところに来てみて感じるのは、歴史というものが非常に重層的に重なり合った、文脈的な重みが強く感じられるところだ、ということだ。これまでの経験では、それは京都に行った時よりも、むしろ奈良に行った時により深く感じたものであり、しかも今となってみると、その奈良で感じた重みすらも、元々は広島を中心とした瀬戸内地方にあった文脈を大きく引き継いでいるためではないかとすら感じている。それは、おそらく、今日本史として残されているのとは違った歴史が、多くこの広島を中心とした地域に残っており、それが底流として脈々と流れ続けているためではないかと思われる。しかしながら、それはあくまでも底流であり、今のところ表には出てきていないどころか、むしろニュータウン開発などによってその面影はどんどん薄くなっているのではないかと感じざるを得ない。

それを考えると、これからの広島の未来を考えた時に、果たしてこのような過去の歴史を切り捨ててゆくような開発で突っ走っていって良いものか、ということを、傍目ながら強く感じてしまう。

私は、それが広島という街の歴史と強く関わっているのではないかと感じている。周知の如く、広島は第二次世界大戦中に原爆によって街が完全に破壊され、そこから再出発のような形で、まさにゼロからといっていい感じで新広島が建設されてきたと言える。それ以前の広島について、毛利輝元による広島城の建設以来、という歴史はあるのだろうが、もちろん広島城の遺構は現在でも堀も含めてはっきりしているのにも関わらず、城下町の風情など、本来的にはあっても不思議ではないものが、原爆によって再興不可能であるという事情はあるのだろうが、ほとんど見当たらない。他の町であれば、城下町は昔から住んでいる人が多くて開発が難しいので、少し離れた駅を中心に新たな都心を形成するべきところ、広島では、駅は相対的に言えば城のそばにあると言えそうだが、それは川を渡ったところで、駅前は川によって開発が大きく制限されており、そのためか駅前よりも旧城下町に当たると考えられる部分に官公庁はもちろん商業中心地も形成され、さらには大規模施設も現在建設中であるという珍しい光景が展開されている。もちろん駅前が寂れているというわけではないが、駅の印象はそれほど強くなく、それよりも宮島まで続く路線もある路面電車の方が利便性も高いということもあり、街中は割と均等に開発が進んでいるように感じる。路面電車沿線ならば交通の便で言えばJRの駅よりもはるかに小回りが効いて使い勝手も良い、ということが言えそう。

そういった広島の発展の歴史の特殊性を考えると、広島藩の中心というのが本当に現在の広島市であったのか、ということを含め、少し疑ってみる必要もあるのではないかと感じる。広島が現在のような広島県の中心となったのは、むしろ明治維新後に第五師団が入って軍都としての意味合いを大きくしてからである可能性もあり、もしそうであれば、師団が入っていた広島城から陸軍港であった宇品までの、人の出入りを管理しやすく防御に優れた広大なデルタ地帯を軍が所管していたのでその後の開発が容易となったという可能性もあるのではないだろうか。広島は路面電車の存在感が非常に大きいが、それも城から港までの交通手段として軍が維持管理してきた可能性を考えれば理解もしやすい。そうでもなければ、原爆で一旦破壊されてしまった路面電車を再び走らせるというほどの活力のもとというのはなかなか説明がつきそうもない。もっとも広島の場合は川が多いので地下鉄が通しにくいという地理的な事情は十分に考慮すべきではあると思うが、それにしても他の都市ではなかなか維持の難しい路面電車の維持というのは注目すべきことであるように感じる。

広島型開発主義

さて、少し想像を膨らませ過ぎたが、いずれにしても、広島の街だけをとって、しかもこのように近代の歴史に限ってみても、議論をしてもう少し合理的な説明を探るべきことは多くあるように感じる。特に戦後になって急速に進んだ現代化の過程においては、政府の財政支出による開発というのが大きな役割を果たし、その際に政治的妥協と引き換えに歴史的整合性が多く失われる、ということは、広島に限らず日本全国どこででも広く行われてきたことではないかと考えられる。だから、先にも例に挙げた路面電車が残っているというのは、政治的妥協には任せられないよほどの強い市民の中での集合的意志があってのことであると考えられ、広島市内を見渡して戦前の光景が蘇るのは、その路面電車を除けば原爆ドームと広島城くらいしか思い浮かばない中で、広島市民の戦前の最後の拠り所として路面電車を残しているのだ、という説明はそれなりに合理性を持つのではないかと考える。

このように、広島の現代的な、一見調和の取れた街並みというのは、その奥底に非常に大きく強い思いのようなものを秘めているように感じられ、その底にあるものこそが広島のパワーの源泉となっているとわたしは強く感じた。しかしながらその広島のパワーをもたらした開発主義的な考え方が、周辺の、典型的には、広島市の西隣にある廿日市という街にも波及し、歴史を顧みることのないと見受けられる開発がものすごい勢いで展開され、私には現在の広島市内よりもはるかに歴史も伝統も感じられるその街が、表面的に広島に倣うかのように開発を推し進め、進んでそのベッドタウンのような役割を引き受け、広島市よりもはるかに深く長く繋いできたと考えられる歴史も伝統も全て現代化の大波の下に埋め尽くしてしまっているように感じられる。

そしてその構図は、これもまたさまざまな考え方があろうが、おそらく関東大震災以降、もっと言えば戦後になってようやく本格的に現代的な首都としての体裁を整え始めた東京と、戦後のさまざまな地方都市の開発という関係性に増幅反映される形で、日本全国が広島とその周辺都市の開発と同様な経路を辿って、日本中が金太郎飴のような風景になってしまった雛形になってしまっているのではないかと感じる。

特に戦後になってからこのようなハード路線の開発主義を取らせてきたのは、広島が被爆地であるという圧倒的な現実の前に、国の政治はいったい何ができるのか、という、様々な含蓄、あまりに多くの要素を含んだ重い問いに対する、当時としては精一杯の配慮という側面があったのではないかと考えられる。そして、それを全国に展開するように切り替えて、広島型開発を雛形としていったのが、広島出身宏池会の池田勇人による所得倍増計画であったと言えそうだ。その路線は、戦後復興の忘れえぬ思い出として日本国民の心に深く刻み込まれ、結果として不況になるたびにその記憶が呼び起こされるという、大きな心のくびきとなって日本人全体を縛りつけることになっていったのではないだろうか。それが結果として今に至るまで、宏池会得意の財政主導による都市主導開発、すなわち広島型開発を日本の開発戦略の雛形にしてきたと言えるのかもしれない。

広島から振り返る歴史というのは、いかにしてこの広島的開発に至るようになったのか、すなわち広島市というのはいかに形成されてきたのか、ということに焦点を当てて、広島が日本型開発主義のモデルになってきた理由に少しでも近づくことを目指して文脈を解きほぐしていってみる、ということになるのかもしれない。これはなかなかに壮大な話で、どこまで近づけるのかは今の段階では何とも言えないが、とにかく千里の道も一歩から、この機会にその一歩目を踏み出すというのも悪いことではないだろう。いずれにしても、歴史語りというのは息の長い過程であり、そして明確なゴールがあるわけでもない。一つ一つ、自分のそしてその歴史に関わる人々の納得を積み上げてゆくのが重要であり、それを無理な開発で押し潰してゆくのではなく、細かな議論を積み重ね、一歩一歩進んでゆく、というのが、平和を目指す、そして平和という言葉に誇りを持つ広島でできること、少し振りかぶってグルーバルなレベルで言えば、むしろ広島でしかできないことなのではないだろうか。

ビジネスにおける平和

こういったことを考慮に入れ、未来について考える時に、果たしてこれまで行われてきたような無理な開発のあり方が、広島はさておき、その周辺都市、あるいは日本全国で同時展開されるというあり方が持続可能なのか、という問いは当然出てきて然るべきなのではないだろうか。そして、今のところ広島は無自覚かもしれないが、その無理な開発の旗を振って戦後ずっと発展を続けてきたということ、さらに言えば、それがいわば平和という言葉を免罪符にすることによって行われてきたということには十分に思いを致す必要があるのだろう。

このような状態から脱するためにいったいどうしたら良いのか。まず一つには、知らず知らずのうちに免罪符として広島という街に染み込んでしまっている平和という言葉をいったいどう考えるのか、ということにもう一度正面から取り組む必要がありそうで、その上で、その平和における開発というものを考える必要が出てくるのではないか。例えば、広島を地盤とする宏池会が政策の大きな柱としている財政政策による開発路線。それは限定的な政府支出に対する競争を引き起こすことになる。市場ならば、顧客は一人ではないので、どれほどの大口顧客であっても、公共事業ほどの支配力はない。公共事業は、たとえ競争政策を取ったとしても、いや取れば取るほどに、その名の通り競争を激化させるものであり、いわば独占的顧客がその独占力を使って競争、すなわち争いを強いる、というものだと言える。公共事業にどうしても独特の競争とも協調ともつかない雰囲気がついて回るのは、平和的イメージの公共政策において、実際には競争政策を取っているという矛盾から生じていると考えられるのかもしれない。果たしてビジネスにおける平和というものを考えた時に、公共事業を優先させるのか、市場を優先させるのか、どちらが平和的であると考えるのか、ということはもう一度考える必要があるのではないだろうか。それによって広島の街の開発から公共事業色が薄れ、そうして初めて人造的ではない、もっと自然な、自生的な街の風景が形成されてくるのかもしれない。

このように、抽象的、概念的な平和よりも、より実際的な日々のビジネスにおいて平和とはいったいなんなのか、ということを考えた方が、より現実的な平和の模索となるのではないだろうか。その中には、競争政策はもちろん、事業に政府が大きく関与する産業政策、どうしても企業への依存度が高くなる雇用政策、あるいは担保主義の中で資産価値が非常に大きくなっている土地政策といったことが含まれるだろう。その中で、平和というものがいったい何を意味するのか、という議論が市民全体を巻き込む形で巻き起こってゆけば、それによって平和が免罪符ではなく広島が実際に追求しているものなのだ、という実体を伴ったものとなっていくのではないだろうか。これがわたしの見るところの、広島から開ける未来の大きな可能性だ。

寛容と対話の地域

そうだとしても、このような形で平和的な開発を志向するというハード路線はもはや限界に達していると考えられ、どこかで路線変更をする必要がありそう。そのようなハード路線路線変更のためにはなんらかの代替案が必要となり、そこで私の提案したいのは、寛容と対話の地域というソフト路線だ。
寛容というのは広島の風土の特徴的なものであると言え、原爆が爆発しようが、歴史が大幅に抹消されようが、とにかく寛容に流れに身を任せてきたというのが現代広島の処世術のようなものだったと言えそう。そしてそのように争いを避けてきたので、街並みなどは大きく変わっても、その底に流れる歴史的文脈は脈々と現代にまで繋がっているのだと言えるのかもしれない。ただ、戦後80年近くなり、そろそろ広島がいったい何に対してこれほどまでに寛容に接してきたのか、ということを表に出してゆかないと、原爆によって文脈が大きな断絶を迎えた以上、そこから三世代以上が経過すると一気に直接的なつながりが薄くなり、文脈の継続が難しくなるのではないかと危惧する。

そこで、まずは広島を強く縛っている原爆という大事件について、率直に多面的に対話を行うことでその実相に迫り、広島という地域の歴史を見る基準点とする必要があるのではないだろうか。戦争というのは常に手柄争いで、戦果のようなものはどうしても盛られがちになり、そして一旦盛られた話はその後の展開でどんどんインフレーションするのが避け難くなる。ここでは、いったんゼロベースで全ての可能性を排除せずに率直に議論を行い、その実相をなるべく正確に復元してみる努力が求められるのではないかと考える。原爆というのはいったいどこまで事実であると確定できるのであろうか。まず私が大きな疑問を抱くのは、それが朝の八時十五分というあまりに早い時刻に落とされたとされていることだ。そんな時刻に広島に着くには、テニアンからならば深夜に出なければならず、まともな試験もしていないとされる新型爆弾を積んでわざわざ深夜に太平洋の島から日本にまで飛び立つというのは、感覚的にどうにもしっくりこない。まずはこのような基本的な事実を洗い直すことによって疑問点を浮かび上がらせて、それについて考えられる可能性を探究し、議論を積み重ねて合理的に認識を改めてゆくという対話が必要になるのではないだろうか。(参考:広島への原爆投下

このような対話を通じて、話のインフレーションがどのように起こっていったのか、という経路もだんだん見えてくるかもしれない。そうした経路が明らかになれば、それはそれ以前の文脈からの継続である可能性が出てきて、それを辿ってゆくことで次第により前の時代についてのさまざまな事実解釈について手がかりが現れてくるのではないだろうか。そうすることによって、広島の人たちの寛容の精神がどこでどう歴史に影響を与えてきたか、ということも見えてくるだろう。おそらく広島の人たちは、このような寛容の精神を持ってずっと対話を繰り返してきたのではないかと思われる。そしてその結果として一人一人がさまざまな、持ちきれないほどの話を抱えてきたのではないだろうか。それが、第二次世界大戦という、これまでにないような大規模近代戦争に直面し、とてもではないがそれまでの話と整合性をとることができなくなってしまい、それまで多く抱えてきた話をいくつも諦めなければならなくなってしまったのではないだろうか。そしてその説明として、原爆が落とされたことで、というのが、感情的にもっとも整理のつく説明となったのではないだろうか。もしそうであるならば、原爆被害者の慰霊、すなわちその成仏とは、その諦められた話を一つ一つ拾い上げて、もう一度皆の記憶の中に蘇らせる、ということになるのではないだろうか。

中間目標としての原爆と、それが引き起こす因果というFiction

こうしてみてくると、広島を起点に未来を臨み過去を顧みるためには、原爆というものを避けて通るのはやはり難しいことが感じられる。そこで、未来を臨む基点として、そして過去を顧みるための目的地、なぜ広島に原爆が落とされなければならなかったのか、という、未来への基点を固めるための中間目標として、原爆というものを目指し、またそこから話を始めてゆく必要がある。

未来と過去をうまく分岐させようとしたが、結局過去の話である原爆というところを避けて通れないとなると、Visionary EssayとNonfictional-Fictionという風に完全に分けて書くことは難しそうだ。Visionaryということも、結局は何らかの文脈上にあるわけで、なぜ広島からVisionaryが生まれうるのか、ということを考えると、その文脈を読み解く必要が出てきて、そしてその文脈解釈は結局主観となるわけで、それはどう頑張ってもNonfictional-Fictionにしかなり得ない。それは昨日書いたような合成の誤謬問題と同じ根の元にあり、主観的に事実だ、とどんなに主張しても、それが全員の同意を得られるわけでない以上、同意を得られなかった人にとってみればFictionにすぎないことになる。そして、そのFictionを元にVisionaryを夢想すると、結局は政治的な問題へと行きつかざるを得なくなる。つまり、Visionaryにならないのには何らかの理由があるはずで、その理由、原因を突き止めてゆくと、どこかで誰か特定の犯人を見つける、ということになりがちで、そうなると、Visionaryを実現するのにその犯人を何とかしないといけない、という政治的な隘路にはまりこんでしまうことになる。

さはさりながら、それでも原爆という非常に複雑で多様な問題を内包したものを基点とすることによって、原爆自体の犯人探しは過去を顧みることとし、その後、その原爆を利用してきた犯人がいることで何らかの歪みが生じているのならば、原爆自体の犯人とは別に、それを利用して社会を歪めている犯人がいるということになり、原爆、あるいはそれを引き起こした第二次世界大戦というものの原因をとりあえず別にして、そのことを利用していわば平和を乱しているということをその犯人に突きつけることで、混乱した状況はかなり改善することになると期待できる。それがここで中間目標として原爆を置く意味であると言える。

さて、そうなると、Visionary Essayを書くために、その問題意識を持った理由として政治的な物に触れざるを得なくなるのかもしれない。つまり、未来に向けても、過去を振り返っても、結局Nonfictional-Fictionから始まらざるを得ないのかもしれない。結局こうして政治はFictionの中で踊るということが最初からビルトインされているという因果の世界にはまり込む。わたしは、そのように政治が因果というFictionに縛られて動くという状況が望ましいものだとは全く思わない。しかしながら、デジタル化した上にグローバル化がどんどん進む世界においては、自分がいかなるFictionのもとで動いているのか、ということがアイデンティティの源泉となり、だからそのFictionの中でなるべく良い位置につけ、そしてそのFictionから外れないように、そこにしがみつくということが重要になってくる。その中で、因果というFictionは非常に強いので、人はそれに縛られがちだし、そして人を縛ることで権力強化しようという政治的モチベーションは、その縛りをいかにうまく利用するか、という方向に強く作用する。そのようにして、因果は政治にとって非常に重要なツールとなり、それが社会を強く縛り付けることになる。つまり、代表制間接民主主義において自分の存在を認めさせるには、因果というものを掴んで、それによって相手の懐に入り込むというのが非常に有効になるのでは、ということだ。そしてその制度においては、相手をそのFictionの中に閉じ込めることによって、その行動を予測、あるいは管理、もっと言えば支配可能にすることができ、そうして自分の支持者の数を集め、それによって権力に近づき、それを使おうとする強いモチベーションがかかることになる。それが、代表制間接民主主義がその仕組みから必然的にもたらす、今起こっている状態をいかに変え、その隙に自分のポジションをいかに上げてゆくかという競争の構図に合わせ、踊り、話し、必死に自分の存在を認めさせようと行動するというノームであり、そのノームに従った情報伝達網がリモートでも機能するように、という強い念を出し、それが空気の中を彷徨っているということなのではないだろうか。

それは、意志を強く持ち、それがリモートを含んだ集団の中に伝わることで、その集団の意志を自分の思うように動かすという、いわば他力本願の宗教の教祖のような存在をめぐって、というよりも最終的に自分が教祖になるなどというのはほとんど誰も望んでいないと思われ、どうやってそこに座ることのないまま自分の利益を極大化できるかというゲームが、代表制間接民主主義において代表を決める際に常に付き纏うということを意味しているのではないだろうか。そんな競争と椅子取りゲームとババ抜きゲームが組み合わさってできた他力本願権力闘争とでもいうべき、政治制度と宗教の最も嫌な部分を煮詰めたようなものが、政治も社会も縛り付けているということを示唆しているのではないか。

広島という土地柄は、政治も宗教もかなり力を持っているのではないかと考えられ、だからそこから逃れるためにあえて因果を崩してゆく、ということを積極的に行う必要に駆られ、それが上で述べた広島型開発に繋がっているという可能性も考えられないことはない。一方で、これはまた追々見てゆくかもしれないが、広島の人の戦い嫌いは徹底していると言えそうで、そこに政治が深く入り込む要素があるのではないかと感じる。つまり、争い嫌いの広島人に対して、代表制間接民主主義が煽り立てることによって、妙な形で政治風土が形成されてきたということなのではないかと感じる。そしてその広島人の政治性というFictionの原点が、やはり原爆というものに行き着くのではないか、というようにわたしは見立てる。このように広島にかけられた政治性の呪縛をうまく取り除くことができるか、というのが、Visionary Essayにたどり着けるかの一つの試金石になりそうだ。

過去のFictionをどこまで突き崩せるか

Fictionの力が強いのは、過去になればなるほど顕著になる。なぜなら、昔になればなるほど真実の姿は誰にもわからなくなるからだ。しかし、広島人は謙虚なもので、ここでも過去をあまり守るようなことは、他の地域に比べれば、していない。巨大古墳があるわけでもなければ、六国史の記述でそれほど派手に目立っているわけでもない。そんな広島が突然歴史の表舞台に立つのは、やはり平清盛の時代からだと言って良いのではないだろうか。ここで、厳島神社がいかに広島の人にとって重要だったのか、ということが明らかになるが、いずれにしても、そこにはかなり大きなFictionがあるのだろうと想像している。今回そこまで突き崩せれば良いのだが、それはなかなかにハードルが高い。それができてしまえば、おそらく現在の日本史の抱えている問題の8割方は解決してしまうのではないか、という感覚を持っているが、原爆に焦点を当てた今回の企画で厳島神社の問題にそこまで力を割けるか、というとちょっと難しいかもしれないので、今のところはそこまでは欲張らないつもりでいる。

そうなると、やはり原爆の落ちた広島市に注力することとなり、当面広島市の過去を探るものとして最も象徴的な広島城に注目することになりそうだ。毛利輝元築城とされるこの城は、戦国末期に建てられたものであり、そこから考えるべきことは非常に多くあるので、それを追ってゆくということが当面の課題となりそうだ。しかし、Fictionの観点から言うと、その時期にわざわざ広島に城を作ったとされる毛利氏に関わることの方がはるかに多くのことを盛り込んでいるように感じる。毛利氏は、本能寺の変、関ヶ原の合戦、そして広島から出て行った後だが明治維新という三つの大きな歴史の転換点に大きく関わっており、その三大Fictionの大元となっているとも考えられる。もっと言えば、毛利元就の名を知らしめた厳島の合戦だが、上にも書いた通り厳島は広島の人々にとって非常に神聖な場所で、宮司すらもその島で生活していたわけではないほどのところであり、そのようなところで合戦をしたものが現地の人に受け入れられるとは到底思えない。つまり、毛利氏にはFictionがてんこ盛りになっており、そのFictionの整理のために明治維新、そしてその延長として原爆へと至った可能性が非常に高いのではないかと感じられる。このFictionを突き崩すことが今回の大きなテーマとなりそうだ。
それを解きほぐしてゆくことで、無理なFictionがどんどん人を追い詰め、ついには戦争やそれ以外の大きな悲劇へとつながらなければならない、まさに因果のようなものを明らかにして行けるのではないかと感じる。願わくばわたしのNonfictional-Fictionが結局単なるFictionとして一人歩きして同じような因果につながらないことを心から願いたい。

では、どこまで行けるかはわからないが、ここから出発してみたい。


広島に行く前にまとめた本などをここで紹介しておきます。本名でやっているので、変に思われたら申し訳ありません。(ペンネームの由来に込めた謎についてはずいぶん迫ってきてはいるように感じますが、もう少しかかりそうなので、こちらではもうしばらくこのまま行くつもりです。)

サミットの視座から臨む世界  ー 過去と未来、世界と地域の結節点

サミットに際して、特に金融面に焦点を当てた提言集です。


サミット後景 ー サミットと日本政治・社会との関わりを追って

宏池会について、ロッキード事件、そして93年サミット周辺に関わる政治状況をまとめたものです。


第1回

第2回

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