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【ニクソン・ショックを探る】毛沢東

では、毛沢東なる人物が一体何者なのか、ということを考えてみたい。具体的実績として、ほとんど何も見当たらないこの人物が、なぜそれほどまでのカリスマ的な力を身につけたのか。

毛沢東の経歴を洗う

戦前のことはこちらですこし触れたが、日中戦争に入るまでの話はどうも作り話が多くを占めているのではないかと感じられる。実際の現実政治の中で表に出てくるのは、とりあえず終戦直後の45年8月30日の重慶での蔣介石との会談で、国共和平・統一について議論をし、10月10日に「双十協定」としてまとめたところが目立つが、これはその直後にマーシャルがやってきて周恩来らと会談し、三人委員会をつくって戦後の枠組みを整えたというのに被せており、さらにはこの協定締結と同時に上党戦役が始まっているので、少なくとも歴史的に重大な事実ではないとみられる。

と思って原文を確認したところ、実は「双十協定」には毛沢東の名前はなかった。どうも、自分の頭の中がしっかり整理されているとは言い難いので、これまでに書いたものを含め、全てが事実であるとみなしていただくことなく、都度事実関係は確認していただけると幸いです。

いずれにしても、出発点はやはりそこではなく、周恩来らの真似ではなく、初めて独自の行動が出たと思われる、52年9月24日の社会主義への移行の表明であるかもしれない。

しかしながら、これもやはり、実際には周恩来がソ連を訪問し、五カ年計画についてのソ連の評価及び援助交渉の結果を報告した書記処拡大会議のことでだとされ、本当にこの場で毛が社会主義への意向を述べたかはわからない。
同時代資料で、劉少奇の新民主主義段階維持、つまり農業互助合作化に対する慎重な姿勢を表明しているのは。52年1月に「右傾錯誤思想」を批判した東北局の高崗であった。つまり、劉少奇が急ぎすぎだと釘を刺した相手は高崗であった可能性が高い。

ついで、百花斉放百家争鳴に関して、56年2月にソ連共産党第一書記フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東が4月25日中国共産党中央政治局拡大会議で「十大関係を論ず」とした講話を行い、その中でその方針を打ち出した、ということがあったとされるが、これもすでに議論した通り、その後の陸定一のものが百花斉放百家争鳴の最初であると考えられ、ここでも毛沢東の存在は疑わしい。

デビューは反右派闘争?

57年反右派闘争の始まりを告げた6月8日の中国共産党中央委員会が毛沢東名義で《组织力量反击右派分子的猖狂进攻的指示》という指示を出した、というのが、毛沢東が現実の存在としてリアルタイムで表舞台に出てきた最初のものではないかと考えられる。それに対して人民日報が《这是为什么?》それは何だ?という社説を出したのは、その内容もさることながら、それよりもそれまで暗黙の了解で現実には存在しない国家主席だったはずの毛沢東が突然意思を持って話し始めたことに対する驚きが示されているのではないか。

幻の第7回全国代表大会

では、その暗黙の了解というのはどこで発生したのか。それは、45年4月23日〜6月11日に延安で開催された中国共産党第7回全国代表大会で採択された党規約の中に、「中国共産党がマルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を通して統一した思想――毛沢東思想を自らのすべての活動の指針とする」と書き込まれたことによる。

その時期は、ちょうど日本軍の芷江作戦という中国大陸での最後の大作戦の進行中で、場所は全然離れているし、また結局大した戦果を挙げることもなく国民政府軍が退けているといえども、呑気に、というのも失礼だが、代表大会を開いている場合なのか、という気はする。そして、その中では、朱徳が『解放区戦場について』という内容で軍事報告をしているということだが、国共合作中に「解放区」という言葉を使っているのはいくらなんでもまずいのでは、という気がする。これは、もしかしたら、劉少奇や朱徳が、日本軍を勝手に共産党軍に準えて、国民政府をやっつけろ、と脳内シミュレーションをしていた会議なのではないか。でなければ1月半もかけて悠長に会議をしている場合ではないように感じる。いずれにしても、今残っている時代感覚とは違った時間が流れていた可能性があり、その脳内シミュレーションの一環として仮想の主席、毛沢東なる人物が、毛沢東思想なるものを掲げて戦後中国を統治するのだ、と夢見ていた、ということではないか。

『新民主主義論』

その毛沢東思想をまとめたものとして、1940年1月9日陝甘寧辺区の文化協会第一次代表大会で講演された《新民主主义的政治与新民主主义的文化》という原題のものが、2月15日に延安で出版された《中国文化》創刊号と、2月20日に延安で出版された《解放》第98、99期合刊に《新民主主义论》という題に変えて掲載されたという『新民主主義論』があるが、

果たしてこれが繁体字で出版されたものが残っているのか、というのがまず一つ興味深い。
その上で、その具体的内容はネット上では見つけられなかったのだが、共産圏や漢字の訳語の多くを充てた日本に留学することもなく、師範学校を出て歴史教師になったという経歴だけで書けるものなのか、という疑問がある。仮に書けたとしても、その内容で人を惹きつけておいて、実際の行動がそれとはかけ離れており、それでもなおかつ人がついてくる、というのがありうることなのか、というのが大いに疑問である。

ゴーストライター?

個人的には、これはやはりゴーストライター的な人物が書いたのではなかろうか、という気がする。中共の幹部でそれだけの文章を書け、なおかつ政治的実力も兼ね備えた人物として考えられるのは、やはり劉少奇ということになるが、劉はすでにその時点で文章力も政治的実力も認められており、わざわざペンネームで出す必要が考えにくい。となると、文章力において劉が一目置かざるを得ない人物で、かつ本名が出せない事情があるということになる。となると、日本人が関わっていた可能性もあるのではないか。

その中で私が候補として考えたいのが、小林秀雄である。小林秀雄は第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に進んだ秀才であり、漢文を書くくらいはお手のものであろう。昭和8(1933)年10月、文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊し、昭和10(1935) 年1月には編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。
昭和13(1938)年3月、「文藝春秋」特派員として中国に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。社員でもないのに、「文藝春秋」特派員とはどういうことかといえば、この年は、内閣情報部が、日本文藝家協会会長で文藝春秋社創業者でもある菊池寛に、作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令した年であり、小林は日本軍から文藝春秋の特派員として招聘されて火野に芥川賞を渡してから満州を回ったようだ。おそらく小林は、ペン部隊の一員となり、身代わりとして左翼崩れともされる火野と繋がりを持っておき、どう転んでも逃げられるようリスクヘッジしたのではないかと考えられる。
この後、小林は戦時中、都合6度にわたり中華民国(大陸本土)を訪問しているという。昭和15(1940)年6月より、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか 52人の小説家とともに日本国内、朝鮮および満州国を訪問し幾つかの文章を残している。その後昭和18(1943)年には林房雄と満州・中国を旅行しているという。この林は、昭和38(1963)年に『中央公論』9月号から『大東亜戦争肯定論』を発表し、大きな物議を醸している。 38(63)年9月から40(65)年6月まで連載されたその間に、ケネディが暗殺され、中国が核実験を行い、フルシチョフが失脚し、江青が上海に入って文化大革命への下準備が始まっている。そこまで連動するだけの発火点として、同行していた小林が「毛沢東思想」の発案者であった、という伏線があれば、それもありうるのではないか、と感じるのだ。そして、そういうことならば、満洲や中国を回ったときにもやはり様々な布石を打っていたと考えられ、反右派闘争から文化大革命に至る間に毛沢東がまとっていた一連の謎の空気感は、小林が毛の名で『新民主主義論』を著し、そして本人が実際に中国・満州をあちこち回ったことから生じたものなのではないか、と考えられる。

規約はいつできたか

さて、では、それがどのようにして毛沢東の著作であるということになっていったか、ということであるが、管見のところ、新民主主義についての研究が始まったのは1950年9月に発行された王海奇の「新民主主義的經濟」のようだ

いずれにしても、中華人民共和国が建国されてから本格的に新民主主義について研究が始まったと考えられる。それは、建国の時に、共産党側でも規約を準備することで主導権を握りたいと考え、そこで慌てて規約らしきものが準備されたのではないかと考えられる。49年の共同綱領には、毛沢東、そして劉少奇や鄧小平など、長征に参加したようないわゆる共産党員は名前が見当たらず、共同綱領派とは別に何かを準備して対抗する必要があったとみられ、その辺りで戦時中にバックデートして規約が作られたのではないかと考えられる。

そこに到達するルートとして、一つには小林自身が大陸に渡った時にどこかで劉少奇と直接会ってそれを渡していたことが考えられる。また、全文はないにしても、メモ程度のものは渡しておいて、のちに何らかの伝手で全文を手に入れた、ということも考えられる。その伝手の一つとして考えられるのが、『近代文学』という雑誌だ。昭和20(1945)年、荒正人・平野謙・本多秋五・埴谷雄高・山室静・佐々木基一・小田切秀雄の7名の同人によって創刊された『近代文学』は、昭和21(1946)年1月12日に「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」という座談会を行った。そこで、小林の戦時中の姿勢が議論となり、小林は戦争が起きたのは必然で、それについて反省する気はない、と述べている。これを、運命の虜になった愚かな人間と見ることもできるが、その後の展開にも関与していることを考えれば、むしろこれからも必然の戦争を起こすのだ、という、強い意思表示だとみることもできる。結局結果的には日本はその必然には足を突っ込むことはなかったわけで、その時点で小林のいう戦争は必然であるという考えが間違っていたことが明らかになっている。天に唾して世界中に喧嘩を売ろうとしたが、あえなく敗れ去った敗残者ではあるが、それでもそれだけのことをしでかしながら天寿を全うできただけでも、本人にとっては大満足なのであろう。それはともかく、この『近代文学』は、左翼系の人脈によって形成されており、そこからルートが作られた、ということも考えられる。
あるいは、満州にもいっているということで、関東軍の中に知り合いを作り、それが現地に残って共産党と接触したという可能性もある。党の基本となる党規約に入れるほどのものであれば、あからさまに日本人とわかるものを劉少奇らが受け入れるとも思われず、中国人に扮して共産党に入り込んだ可能性があるのではないか。その中で、先ほども名が出た高崗という人物に注目したい。彼は、1930年代の第一次国共内戦では中国西北部で習仲勲らとともに革命根拠地を建設するなどの活躍を見せたとされ、1945年6月、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で中央政治局委員に選出され、第二次国共内戦が始まると、中国東北部(満州)で活動し、党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、東北軍区司令員(司令官)兼政治委員を務め、東北部の党・政・軍を一手に掌握した、ということで、満州国崩壊後に東北部を支配した中心人物だった。陝西省出身とされる彼がなぜそのようなことをできたか、と考えると、彼自身、あるいは身近に旧関東軍、あるいは満州国に関わる中心的な人物がおり、それによって可能となったのでは、と考えられる。個人的には、日本人だったのでは、と感じるが、特に根拠は見つけられなかった。この辺りは共産党成立の根本的問題となるので、なかなか明らかにはなりそうもない。

毛沢東の名はどこから?

なぜ毛沢東という名になったか、ということだが、まず名前の方の沢だが、これは日本も含め、中国でも地域によって非常に多様な発音を持っており、外来の漢字である可能性が高いのではないか、と感じる。毛沢東の本来の発音は何か、ということを追えば、本当の出身がどこなのか、ということが明らかになるかもしれないが、それはともかく、外来だとすると何を意味するか、ということを考えてみたい。沢の旧字体は澤であり、それが釋を釈にしたのに倣って沢にしたという。釈というのは釈迦の字であり、つまり睪の字は仏教的な意味があったのかもしれない。そうだとすると、沢東は東から来た仏、しかも水に関わるもの、という意味なのかもしれない。
そこで毛という姓だが、こちらは沖縄、の琉球王国以来の五大姓と呼ばれる名門の姓のうち二つを占める有力な姓である。沖縄は昔から八幡信仰が盛んで、倭寇は八幡の旗を掲げていたとも言われる。八幡自体はもちろん仏教ではないのだが、これは全くの個人的感覚だが、八幡というのは海からやってきた教えで、それは実はいわゆる南伝の仏教の一部だったのではないかと感じており、つまり釋はこのような海伝いで広がった南伝の教えなので、各地で読み方が違う、ということがあると考えられないか、と思っている。そして、毛という姓は、三国時代以来、水軍の姓に用いられやすいのではないか、とも感じており、つまり、毛沢東という名前自体、東方からやってきた水に関わる神仏的なイメージがあるのではないか、と感じる。非常に直感的で、何の根拠もないのだが、そんなことからも、毛沢東という人物は、ある程度日本人が関わって作られたものではないか、と感じる。

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