科学の終焉

近代化は科学の発展によって成し遂げられてきたともいえるが、いまやそれが限界を迎えているのではないかと感じられる。近代化の萌芽は、デカルトによる自我の発見とその方法論の公式化から起こったと言っても良いかもしれないが、結局その下での近代化はデカルトの方法論を踏まえての一般化、というプロセスを辿っているに過ぎないのかもしれず、デカルトを相対化して個別の懐疑の違いを考える、というところには至っていなかったといえるのだろう。だから、デカルトの方法論に従って至った考えは一般的に違いない、ということで、それを科学として広める、ということから科学の進歩が急速に進んだといえよう。それは、啓蒙思想と相まって、深い懐疑に至っていない人々の蒙を啓く、ということで、「科学的」考え方を理解しないのは闇に閉ざされた人間である、として、科学の名による思想強制が行われ、そこに科学の宗教化の種も埋め込まれたのだといえそう。

実際、科学はデカルトの懐疑と数学的方法論によって定量化、一般化が可能となり、そこから産業革命につながったと言えそうだ。デカルトの死後間も無く発表されたボイルの法則により、理論的には化学の数学応用のきっかけとなり、実務的には蒸気機関の発達への道が大きく開かれた。ボイルの法則にデカルト座標、そして代数的な考えが、直接繋がるのかは浅学のためわからないが、大きく影響したとはいえるのではないだろうか。さらにニュートン力学によって力学の幾何学的証明がなされ、そこから質量保存の法則に至って科学と物理が急接近することになる。

一方、デカルトの故国フランスでは、啓蒙思想は過激化し、モンテスキューやルソーによって社会契約に基づく法学思想へと展開され、その後、フランス革命をきっかけに節度ある啓蒙主義の担い手が存在感を失った。質量保存の法則の発見者、ラヴォアジエも革命によってギロチンにかけられた。この頃から、教会を通じた神へのアクセスよりも、科学の方が神への近道なのでは、との錯覚が生まれ、科学は神のお造りになった世界を説明するものとして、理性一辺倒の合理主義の基礎を形作り、そこからある種宗教的な色彩を帯び、科学絶対主義への流れが生まれるようになったのだといえる。

一方で、社会科学においても、リカードが比較優位の法則を提唱し、貿易の利益を幾何学的に説明しようとする動きが生まれた。マルサスの人口論なども、デカルト的代数の概念が大きく影響しているといえるのではないか。そう言った社会科学の数学化の延長線上にマルクスの科学的共産主義の考え方は位置づけられるのだろう。そして、マルクスは本能的にそのやり方の最大の問題点に気づいていたのだと言えそうだ。というのは、デカルト的代数学では時間の概念を考えることはできず、つまり、デカルト座標はアプリオリに存在し、その座標軸上での動きを捉えているに過ぎないので、いかにしてその座標軸に乗せるのか、という、アプリオリに存在する自然を科学するのとは違った、社会科学独特の問題が発生するからだ。マルクスは、それを「革命」という手法で解決することにしたのだといえる。革命によってそれぞれの人がどの自然数の代数となるのかを決め、その定義に従って科学的に動く、としないと、社会を科学する始まりが定められないのだ。こうして、社会科学は革命と一体となったのだといえる。

自然科学では、その後原子の発見があり、物理と化学の融合が視野に入ってきた。それに対して相対性理論は、実はむしろ社会科学的な要請から生まれたのではないだろうか。つまり、物理に原子という基本単位が見つかった時に、革命で定まる順序の正当性をいかに担保するのか、ということで、相対性の基準を定めてそれに基づく順序は正当である、という理屈づけをしようとしたのでは、ということだ。そして相対性理論では光の速度が絶対とされる一方で、その頃社会科学では、限界革命が起こっており、効用、そして社会的には厚生を極大化するということを目的に、数学の応用が広まっていた。それは、功利主義に基づいたものだと言え、光の速度にあたるものが功利主義的計算で、要するに損か得かの基準で全てを判断し、それによって順序を決めることが正当であるという理屈づけをしたのだ。つまり、光という明確に定義できないものを基準とすることで、社会科学的にそれを損得勘定に置き換え、そしてその社会を観察することによってエネルギーの根源を探ろうとするための理論であったといえるのではないか、ということだ。そして、搾取はけしからん、という、功利主義的ボトムラインを刺激することで、社会的エネルギーを作り出し、それによってロシアをはじめとしてあちこちで共産主義革命を引き起こすきっかけとなった。一方で、近代経済学では完全競争均衡の考えが生まれ、革命によらず、競争による永続革命によって、功利主義に基づく椅子取りゲームが正当化されることとなったと言えそうだ。

その後、自然科学ではさらに量子力学が発展し、個別の素粒子の性質解明に突き進む。そんな中で、核反応による巨大なエネルギーが発見され、科学は一つ人間の手に負えない段階にまで至ったといえる。それは、原子という最小単位と考えられていたものをさらにいじることで、理論的にはまだ整理しきれているとは言えない世界に突入したものであり、それを社会科学的観察と重ね合わせると、革命の原理を物理的にいかに整理するのか、ということにつながってくるのだといえる。つまり、核開発に没入するのは、革命の正当化の理屈を見つけたいがためだと言え、そしてそれを核保有国が独占するというのは、革命による権力喪失を防ぎ、そして革命自体の正当性根拠を自らのものにしようという企てであると言え、それ自体人類に対する革命を起こしている真っ最中であるとも言えそうだ。そして、さらに、量子力学というこれもまたまだ一貫性のある説明のなされているとは言えない分野の理屈を用いた量子コンピューターというのも、科学よりも現実が先行し、理論で説明しきれないいわば宗教的世界の局面に突入しているといえる。

基本的には科学は一般化の過程だといえるが、上の経過を見てもわかるように、一般化による世界解釈では、素粒子の一部を捉えるところに止まっており、もはや全体を捉えきれない時代に入っている。これは、一般化を目標とした科学によって、個別素粒子を分析するということ自体が論理的に矛盾しているといえるからだと言えそうだ。だから、これからは、個別解釈をいかにすり合わせるか、ということがより重要になってくるのではないか。個体はそれぞれ違うわけで、一般的にその違いがどう生まれるか、というよりも、個別合理性を一つ一つ見てゆかないと、合理性の前提やその論理は理解できないからだ。それには、アプリオリに定められた自然数に基づいた数学によって複雑な事象を描こうというデカルト的な科学的アプローチとは違うやり方が求められるのだろう。つまり、わかるということが、一般化できる、ということではなく、一般化し得ない理由まで把握できる、という、認識論の深化が必要になるのでは、ということ。

それは、物理学というよりも、生物学に近いアプローチとなるだろう。生物学も、トレンドとしてはDNAから全てがわかる、というような方向に向かっているようにも感じるが、それでは進化は予測の範囲内でしか起こらないことになる。それは、デカルト的に演繹で未来を予測し、そこへ向かって合理的に最短で到達するという考え方からきているのだといえる。しかしながら、実際問題として、核燃料サイクルはデカルト的認識では理論的に可能なはずなのに、実際はできていない。そして、放射性廃棄物については最初から理論の枠外にある。それはやはりかなり無理をしないと実現できないことであり、理論に不備がありすぎることを示しているのだといえる。それよりも、帰納的に、それぞれが未来イメージを描き、そこに向かって前提の異なった人々がそれぞれ何ができるのか、というのを逆算して実行してみて、そこで未来イメージの違いがあったり、前提の衝突のようなものが起きれば進まなくなる。そこで、それぞれの未来イメージ、そして前提をきちんと話し合う、対話のプロセスが重要になってくる。何がずれているのかを一つ一つ確認する、という無理のないアプローチをすることで、摩擦が少なく、すなわち地球環境への負荷も小さい状態で持続可能な未来を追求してゆくことができるようになるのではないか。

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