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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(17)

昭和財政史 大内兵衛

『昭和財政史』(戦前編)の序説はもう少し続くが、あとは戦後の発展と本文の構成なので、特に記すこともない。そこで本文なのだが、序章の大正時代のところを読んでいるところで、それを書いた大内兵衛という人物について少し引っかかったので、そこから始めてみたい。

大蔵省入省

Wikipediaをさっとみてまず引っかかったのが、

東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。1919年に東京帝大経済学部が新設され、助教授に着任。財政学を担当した。1920年森戸事件に連座して失職し、大原社会問題研究所嘱託となり、マルクス主義を本格的に学ぶ。翌年ヨーロッパへ私費留学してハイデルベルク大学に入学。1923年東京帝大に復職。

Wikipedia | 大内兵衛

の部分。東京帝大卒業後に大蔵省入省で大臣官房銀行課配属となっているが、略歴でも、銀時計の受領も1913年となっており、なんらかの理由で2年遅いが、何れにしても首席で卒業し、大蔵省に入ったようだ。なお、東京帝国大学法科大学に経済学科が設置されたのは、明治41(1908)年7月だとされ、だとすると、法科大学に2年通って経済学科が設置されたのを期にそちらの立ち上げに携わりながら三年程度通い、首席卒業ということになるか。大正2(1913)年当時の大蔵大臣は高橋是清であり、その引きでの大蔵省入省ということになりそう。そうなると、当然学生時代から面識があったことになり、その経済に対する知見からも、高橋是清がこの経済学科の設立に大きく関わっていた可能性が高いのではないだろうか。のちに財政に関わることになりながらも、最初の配属が主計局ではなく銀行課だったというのも、高橋是清が日銀副総裁、そして総裁を相次いで務めたことからも説明がつきそう。

東京帝国大学 経済学部設置の背景

大正8(1919)年、法科大学から経済・商業学科が分離し、経済学部が新設されたという。これについてはさまざまな絡みがあり、かなり複雑なことになっている。まず、この前年末に、高等学校令と大学令の制定及び実業学校令の改正(大正7(1918)年12月6日)が行われ、教育改革が推進された。これは、寺内内閣で発足した臨時教育会議の答申に基づいて行われたもので、その背景には第一次世界大戦中の好景気で税収が増え、予算は引き締め気味を継続していたために余剰金も含めて財政の拡大余地が広がっていた、ということがあったと考えられる。(『明治大正財政史』総説

西原借款

それを受けて寺内内閣は、大蔵大臣勝田主計の主導により、西原借款と呼ばれる中国段祺瑞政権向けの借款を、公式ルートではなく、寺内正毅首相の側近西原亀三が「個人として」交渉した。日本側の銀行も、それまでの対中借款を扱ってきた横浜正金銀行ではなく、勝田の斡旋で、日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行が資金を拠出し、1917年1月に決まった500万円の交通銀行借款を手始めに、その後1918年にかけて実施され、総計1億4500万円にのぼったという(Wikipedia | 西原借款 一部編集)。これに対して、

同年8月、段政権が金本位制導入を目指した「金券条例」を公布したが、この条例を巡って勝田蔵相と後藤外相が対立した。後藤は中国が日本と欧米が結成した国際借款団からの融資を原資として金本位制を導入する約束であったのに「金券条例」はそれを破っているとして中国に抗議をしようとしたところ、実は「金券条例」の財源には西原借款が充てられることが判明し勝田もその事実を知っていたからである(後藤は中国統一後の金本位制導入を構想していたのに対し、勝田や西原は段政権支配地域において先行的に金本位制を導入してその経済力を強めて中国統一を実現させようとした)。

Wikipedia | 寺内内閣

という。つまり、対中政策において内閣内で、寺内・勝田路線と後藤路線の違いがあり、後藤の頭越に西原借款が行われ、いわばその目眩しのような形で教育改革が行われた、ということがありそうだ。

森戸事件

さて、この教育改革が影響したか、大正9(1920)年に森戸事件が発生する。

1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立。1920年、新機運を象徴するものとして経済学部が森戸と同じ助教授だった大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行。森戸は人類の究極の理想が無政府共産制にあるとの考えから、この創刊号にロシアの無政府主義者・クロポトキンの「パンと奪取」という論文を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体・興国同志会から排撃を受けて雑誌は回収処分のち発売禁止となった。さらに新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸と大内は起訴された。

Wikipedia | 森戸辰男

これを受けて、文部省に従った当時の東大総長山川健次郎によって休職処分となったというが、実際には1月に掲載され、10月2日に大審院(当時の大審院検事局検事総長は平沼騏一郎で1月11日に興国同志会の訪問を受けている)が上告を棄却して有罪が確定したが、その直前9月27日に山川は東京帝国大学総長職の免職を依頼していることからも、山川と文部省との確執が想定できそう。この辺り、教育改革が原内閣でどのように進んだのか、ということを確認すべきなのだろうが、帝国議会の議事録からでもあまりよくわからなかったので、またの機会としたい。

森戸は、大内と同学年だが、卒業は1年遅れて大正3(1914)年で、森戸は大学に残り師事した高野岩三郎の経済統計研究室でしばらく助手をした後大正5(1916)年、経済学科助教授となっていた。そこでおそらく経済学部の独立に尽力したのであろうと考えられる。その結果、大正8(1919)年に東京帝国大学法学校経済学科が独立して経済学部が設置されることになったのだと言えそう。そこに助教授として戻ってきたのが大内兵衛で、明けて大正9(1920)年正月に発刊されたのが『経済学研究』の創刊号だった。

ILO問題

この東京帝国大学経済学部の設置に際しては、更なる問題があり、

第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約中の国際労働規約により発足した国際労働機関(ILO)は、1919年(大正8年)参加国による総会である国際労働会議(10月29日ワシントンで開催)を招集した。
高野岩三郎は明治期労働運動の先覚者であった高野房太郎の弟であり、社会政策学会では左派の代表として労働問題を論じ、また友愛会にとっては顧問格・相談役ともいうべき存在であった。そのため労働者代表選出問題においては微妙な立場に立たされ、同僚教授の矢作栄蔵(同じく社会政策学会会員)や吉野作造・吉野信次(農商務省書記官)の兄弟、河合栄治郎(同じく農商務省参事官)らの説得によりいったんは代表を引き受けたものの、今度は鈴木ら友愛会幹部および福田徳三・森戸辰男・櫛田民蔵など友愛会に近い立場の知人・同僚から強く辞退を勧奨された。これに対し吉野作造は顧問の資格で会議に参加するよう高野を慫慂したが、結局のところ高野は労働団体からの支持・合意を取りつけられなかったゆえをもって代表を辞退した。さらに9月30日社会的に迷惑をかけたとして東京帝大教授も辞任、10月8日経済学部教授会もこれを承認した。
東大を辞職した高野が大原社会問題研究所所長に就任し活動の軸足を同所に移したことから、彼が中心的な役割を占めていた社会政策学会も協調会への協力をめぐって会員の対応が分かれ、学会としてはやはり衰退に向かった。

Wikipedia | 国際労働会議代表反対運動

先に出てきた通り、高野岩三郎は森戸辰男の大学時代の恩師であり、ここで森戸が高野に対して代表辞退を申し入れたとされるが、高野はこの事件によって大原社会問題研究所の所長となり、森戸と大内ものちにその所員となっていることから、この対応は両者の対立を示すものではなさそう。つまり、大学教授は労働者ではないから、労働者の代表として出席するのはおかしい、という論理的な問題であったと考えられ、それによってできたばかりの東京帝国大学経済学部が大きく揺さぶりをかけられたのだと考えられそう。
共産主義の会議でもなく、国際労働機関の総会だとしたら、そこに労働者の立場で代表が出ないといけない、というのは、少なくとも現在の感覚からは少し違うように感じる。しかしながら、ILOの設立過程を追ってみると、その様相も理解できるかもしれない。ILOは第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約第十三条で国際労働機関の規約が定められたことで、設立に向けて動き出した。そもそも第一次世界大戦は共産革命と切っても切れない関係にあり、1917年三月にロシアのニコライ2世が退位し、十月には十月革命が起きた。同じ年、五月には共産主義者がミラノで暴動を扇動して、終戦を訴えていた。ドイツでは、その一年後の1918年10月末にドイツ革命が勃発した。結局のところ、このドイツ革命が大戦を終わらせたといえるほどの大きなインパクトがあったと言えそう。そんなことがあったので、第一次世界大戦の講和条約の中に、ILOの規約らしき文章が紛れ込んだといえそうだ。

ILO設置に関わる問題

さて、ヴェルサイユ条約は1919年6月28日に締結されたが、それに先立って2月にスイスのベルンで労働組合の国際会議が開催され、それについでヴェルサイユ条約締結直後の7月にはアムステルダム・コンセルトヘボウで国際労働組合連盟(IFTU)の設立会議が開かれた。しかしながら、アメリカ労働連盟(AFL)を率いるサミュエル・ゴンパースが会議をボイコットし、代わりにパリでの開催を求めた。ゴンパースは2月1日にパリ講和会議での国際労働法制に関する委員会の議長に選ばれていた。国際機関の提案には二つの対立的な提案が出た。英国は参加国に労働法の実行を求める国際議会を設立することを提案した一方で、アメリカは国際的水準が合衆国で成し遂げられた少数者の保護を低くするとして反対し、ゴンパースは国際機関が勧告だけを行うよう提案し、英国の反対にもかかわらず、アメリカの提案が通った。結局最初の国際労働会議は10月29日にアメリカのワシントンD.C.で開かれることになった。なお、ゴンパースは第一次世界大戦中に労働組合の戦争協力に積極的で、反戦労働グループに強く反対していたという。

英国の提案の中に議会には使用者側と労働者側の両方から代表を出す、というものがあったので、日本で出席者がどちらの立場に当たるのか、という問題が発生したのだと考えられる。しかしながら、当時日本の労働運動の中心となっていた友愛会は労働者の相互扶助団体で、まだ組合のようなものではなかった。ただ、社会運動家の賀川豊彦らの参加もあり、大正6(1917)年には日本製鋼室蘭製作所の争議で政府と対決していた。つまり、日本の労働運動自体の様式がまだしっかりとは定まっていない中で、誰が労働者の代表となるのか、ということが大きな問題となって行ったのかもしれない。結局その後友愛会は左派系を切って労働組合としての形態を固めていくことになった。いずれにしても、日本の初期労働組合活動は、キリスト教の強い影響下にあり、その解釈にかなり苦労したのではないかと思われる。
参考:友愛会から総同盟へ−鈴木文治と松岡駒吉の軌跡

そんなこともあり、東京帝国大学の経済学部は設置直後から大きな壁にぶち当たり、高野をはじめとし、森戸も大内も大原社会問題研究所に移った。この辺りの事情はまだまだ明らかではないことが多いと思われるが、それには、大内がこの『日本財政史』(戦前編)編纂の中心となり、一方森戸は初代広島市長となったということで、どちらも池田勇人の強い影響下に置かれることになり、表にできないことが多くなったのではないかと想像される。どちらももはや鬼籍に入られて30年以上が経過しているので、そろそろその辺りの事情が明らかにされても良い頃ではないかと感じる。それは、ご本人たちにとっても望まれることではないだろうか。そして、そういった大内の複雑な立場を考えながらでないと、この『昭和財政史』(戦前編)を読み解くのは難しいということだろう。

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