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国際金融制度改革の必要性8 ー ケネディ外交

3.テロ事件前後の政治的文脈


一方で、サブプライム危機は非常に政治的な動きでもあった。サブプライムローンが顕在化したのはブッシュジュニア政権終盤の2007年頃からで、2008年大統領選挙でブッシュに変わってアメリカ初の黒人大統領となるバラク・オバマが生まれ、多くの人々に希望を与えていた。

オバマとケネディ

それは、1961年にアメリカ初のカトリックの大統領となったケネディと多くの点で相似をなしていた。共に民主党であり、戦後に強まった共産圏との対立がピークを迎えていたケネディに対して、冷戦終結後に大きく浮かび上がった対テロ戦争が世界の安全保障の中心となっている中でのオバマ、そして何よりも、核兵器削減への強い意欲、というものがあった。ケネディは、核抑止に頼らざるを得なかったその前任者のアイゼンハワーが退任演説で軍産複合体を非難したのに対して、核兵器自体の削減に取り組んだ。それは様々な点で矛盾を顕在化させることになった。

ケネディ外交の背景

ケネディの場合は、それを主体的に行ったと言うよりも、状況によってそうなったと言うべきものだと言える。1961年の就任直後にCIAの独走に近い形でピッグス湾事件が起き、翌年にはキューバ危機でソ連がアメリカの裏庭キューバに核ミサイルを持ち込もうとした。それは、人類が核戦争に最も近づいた日ともされ、否応なく核軍縮に取り組まざるを得なくなったのだ。これにより、63年6月にはソ連との間で部分的核実験禁止条約(PTBT)が締結され、核軍縮への方向付けがなされた。一方で、ケネディはベトナム戦争への本格介入を行ったとされる。元々ベトナムは北ベトナムのホー・チ・ミンという人物を中心としてフランス植民地からの独立を図っていた。ホー・チ・ミンは共産主義と言われるが、フランスの社会党系の人物であり、毛沢東のようなごりごりの革命主義的共産党とは毛色が違っていた。それに対して、南ベトナムの指導者ゴ・ディン・ジェムはカトリックであり、よりフランス植民地政府の立場に近かったと言える。しかしながら、このゴ・ディン・ジェムは、カトリックの名の下に仏教徒など異教徒をひどく弾圧していた。それに対してケネディはアメリカ初のカトリックの大統領ということもあり、宗教的な支持層であるカトリックの声というものは無視し難い立場にあった。そんな中で共産主義によるカトリックの抑圧という構図を作られ、更にケネディ本人はゴ・ディン・ジェムに対してクーデターを起こした勢力を助けようとして介入を強めたのだが、CIAがゴ・ディン・ジェム側を支持するというねじれが生じていた。

国家安全保障会議

ケネディの外交政策を縛ったCIAの長官は、アイゼンハワー政権から引き続いてアラン・ウェルシュ・ダレスが務めており、ケネディはそれを統括する安全保障担当補佐官としてタカ派のバンディが指名したが、その統括機関としての国家安全保障会議はケネディ政権では余り重視されていなかった。ここで、大統領退任演説で軍産複合体批判を行ったアイゼンハワーの核戦略の理論的支柱だったのは、実は軍用機メーカーのダグラス傘下にあった安全保障に関わるシンクタンクランド研究所に籍を置いていたハーマン・カーンと言う人物で、一方でアイゼンハワーの大量報復戦略に沿った核戦略を批判し、通常兵器をベースにした戦術核兵器の拡充を訴えたのが同じくランド研究所でコンサルタントをしていたヘンリー・キッシンジャーであり、核の充実にしろ削減にしろ、軍事力強化の理論付けはいずれにしてもランド研究所を中心になされていた。なお、前述のジェイコブ・ヴァイナーも、経済学者ながら、核抑止論を主張していた。アイゼンハワー自身はその華麗な軍歴によってある程度軍産複合体的な物の拡大を止めることができたが、その閣内には歴史的、宗教的文脈に縛られて好戦的に方向付けられたいくつかの流れがあり、その力のことを軍産複合体として象徴的に表現したものと考えられる。そのあたりの政治的背景はかなり複雑になるのでここでは省略したいが、核抑止を主導したのは前述のアレン・ダラスの兄で国務長官だったジョン・フォスター・ダレスだった。国務長官もCIA長官も国家安全保障会議のメンバーだと言うことで、そこからランド研究所を通じて広がるネットワークが、軍産複合体的な物の中心であったと考えても良いだろう。国家安全保障会議は、ルーズベルトの死後に副大統領から昇格したトルーマンの下で定められたもので、議会はトルーマンの法案には全般的に反対であり、そのことから大きな政治的停滞、混乱の中で通ったものだった。そして国家安全保障担当大統領補佐官自体法律の中で定められたものではなく、アイゼンハワーがAdviserとして少し距離を置いた形で設置したものだと思われる。おそらくケネディはその流れを引き継ぐ形で国家安全保障会議に重きを置かずに閣内で外交を行おうとしたが、それとは別に国家安全保障会議主導の外交が行われ、二元外交となっていた可能性がある。そして後にニクソン政権下でキッシンジャーがその法的根拠を持たない役職で好き放題に外交を振り回すこととなっていったのだろう。それがニクソンショックという強引な外交の展開につながっていったのだと言える。

カトリック大統領 ケネディ

余談となるが、ケネディがカトリック初の大統領となったことは、ちょうどその頃ローマ教皇になったばかりのヨハネ23世が公会議を提案したということが背景にある。それは、まさにベトナムにおけるカトリックのゴ・ディン・ジェムの暴政によって植民地主義とカトリックの関係が問われるという事態になりつつあったことと無関係であったとは言いがたい。このあたりは様々なことに波及する興味深い論点であるが、ここではこれ以上は触れない。また、共産主義についても、レーニン・トロツキー的な世界同時革命論とスターリン的な一国共産主義論は明らかに毛色が違って一つにまとめることはできず、さらにベトナムに関してはホー・チ・ミンという非常に独特な個性によって共産主義という言葉ではくくれない動きであったが、それもここではとても書ききれない。

CIAの外交への介入

いずれにしても、どちらの事件もCIAが主導してやっていたことで、ケネディが軍事的介入主義者であったかと言えば、そんなことはなかったのだろう。ケネディは結局63年に暗殺され、その後副大統領のジョンソンが大統領を引継ぎ、その下でベトナム戦争が泥沼化したことで、ケネディの責任が問われることになっていったのだと言える。つまり、アイゼンハワーの時代にすでに始まっていたベトナムでの対立にCIAが深く関与して泥沼化させようとしていたのを、ケネディが軍事顧問団を入れることで何とか沈静化させようとしたが、結局暗殺されて、後を継いだジョンソン政権で国家安全保障会議の力が強まる中、更に泥沼化した、というのがアメリカの介入したベトナム戦争の本質なのだと言える。政界に進出する以前にこのCIAと関わりがあったとされ、ベトナム戦争末期の1976-77年にかけて1年だけCIA長官を務めたのがブッシュ(父)であった。折しも政府の情報収集手法に関するチャーチ委員会が開かれており、ブッシュがCIA長官に就任した直後にこの委員会でロッキードのコーチャン証言があり、それがきっかけとなって日本でのロッキード問題が火を噴くことになる。このあたり、ニクソンショック以降の日本を含めた国際政治情勢と非常に強く結びついており、米中、日中国交正常化、周恩来・毛沢東の相次ぐ死と鄧小平の登場、そしてこのCIAが関わったとも言われるロッキード事件という流れとの関連は無視できないが、それもここでは書ききれない。

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