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【Lonely Wikipedia】1873年恐慌から金本位制確立

かなり手こずってしまって、内容についても本当にしっかり情報を理解しきったかと言えば大きな疑問が残るが、とりあえずは前に進めるためにも公開してきりにしたい。このあたり、現代的貨幣制度の始まりと非常に深い関わりのある部分で、ここの見方次第で見える風景が随分変わると思うので、おかしいと思われた所など、どんどんコメントを頂けると幸いです。

1873年、アメリカの貨幣鋳造法をきっかけにして経済恐慌が起こった。それはその後1896年まで続いたともされる大恐慌の始まりを告げるものだった。この様子を追ってみたい。

1873年恐慌(1873ねんきょうこう、英: Panic of 1873)は、1873年から1879年までヨーロッパと北アメリカで不況を生じさせた金融危機である。さらに長引いた国もあった。例えばイギリスでは「大不況と呼ばれる経済停滞の20年間が始まり、それまで世界経済をリードしてきた国力を弱らせた。当時は「大恐慌」とも呼ばれたが、1930年代初期に世界恐慌が起きた後は、長期不況と呼ばれるようになった。


経済的に見ると、短期的に見ても1879年まで65ヶ月に亘って続くこの不況は、世界史上最長の不況であり、統計の取り方によっては1896年まで続いたともされる。この強烈な不況は、要するに、金本位制に基づく紙幣の導入と強く関わっていた。
金本位制の歴史について、イギリスがニュートン比価に基づいて金と銀の価格比率を定め、それに対してフランスがナポレオンの時にそれより有利な金価格を提示して金を集めたためにイギリスが金の交換を停止し、ナポレオン後に再び交換を開始したが、ナポレオン3世が再びナポレオンの時の比率でラテン通貨同盟を設立したところまではみた。本来的には正確な金銀の交換比率を含めたニュートン比価の所をしっかり見ないと貨幣についてははっきりとは見えてこないのだが、これはWikipediaでさっとわかるような問題ではないので、ちょっと今のところは手が出ない。フランスとイギリスの交換比率が本当にフランスの方が有利だったのか、という事を含めてもう少し確認しないといけないので、前に軽く書いてしまったが、その部分はまだ要検討ということにしておく。

さて、ナポレオン3世のラテン通貨同盟だが、これが果たしてナポレオン3世が主導してやったものなのか、というのは、実は怪しい。というのは、当時の第2帝政フランスは内閣を持っておらず、にもかかわらず、アチル・フルダという銀行家一族出身の財務大臣は存在したのだが、ラテン通貨同盟を主導したのは財務大臣ではなく単なる1議員のフェリックス・ペリューだったのだ。つまり、ナポレオン3世は、外交では華々しい活躍を見せていたが、内政においては全くグリップが効いておらず、あちこちで勝手な政策が動いていた可能性がある。そして、ラテン通貨同盟が皇帝の頭越しに多国間協調で結ばれるというのは、皇帝の存在感が薄くなると言うことになり、ナポレオンは次第に追い詰められていったのではないか。だから、1867年にその頼りにしていた財務大臣のフルダが没すると、内閣を置くようになったのだと考えられる。それは、もやは帝政から共和制への移行段階に入ったと考えることもでき、その時点でナポレオン3世の関心は、いかに革命に依らず、つまり自分の命を差し出すことなく帝政から離脱するか、という事がテーマになっていたのではないかと思われる。

そんなナポレオン3世の内政の中心はパリの再開発だった。1853年に、パリを含むセーヌ県の知事となったジョルジュ・オスマンは、大胆なパリ改造計画を実施した。これにより、パリは中心部から近代的な都市に様変わりしていったが、その費用はうなぎ登りになっていた。その費用は超過収用という手法で、沿道まで含めて収用し、街路ができあがったら産価値の上がった沿道の土地を売却し、事業資金に充てるという、近代的(?)な開発手法であった。それは、パリに地価高騰を引き起こし、土地投機の大きな対象となったのではないかと考えられる。そんなこともあり、オスマン男爵は70年に内閣と対立して知事を辞任したが、それをナポレオン3世がかばっている内に普仏戦争が起きたのだった。そういう事情があって、普仏戦争で見え透いたビスマルクの挑発にまんまと乗ってナポレオン3世は、自分が人質になる、という事で、泥舟の帝政から抜け出したのだと言えそう。

ドイツ諸邦は、ナポレオン1世没落後のウィーン会議以降、オーストリア帝国を中心としてドイツ連邦を形成して一体感を築いていたが、その中でプロイセンが主導権を握る動きをずっと見せていた。プロイセンは、ウィーン条約の結果、国土が分散して存在するようになり、国内の移動でも外国領を通ることで税金がかかるという状態を解消する必要があった。その為に、順次条約を結んで関税同盟をオーストリアを除くドイツ全域に広げていった。そして、1857年には、ウィーン通貨条約で、銀本位によるプロシア、南ドイツ、オーストリアのそれぞれの通貨の交換比率が定められ、経済統合が進んでいた。
そんな中で、1865年末に、金銀複本位でのラテン通貨同盟が結成された。それは、せっかくできたドイツ経済圏にとっては大きな挑戦であり、元々の南ドイツのフランスとの関係の深さを考えると、南ドイツとオーストリアは個別にラテン通貨同盟と協定を結んで交換比率を定める可能性があり、そうなるとそれとペグしているプロイセンでも必然的にラテン通貨同盟との通貨連動が起こることになる。プロイセンは元々農業国であり、フランスに比べて産業は遅れていた。ウィーン条約でルール地方を手に入れて、それをもとにして鉄道網を広げ、それを産業化の基盤にしようとしたところだった。それが、通貨がフランスとペグするようになると、フランスの産業と同じ土俵で戦わないといけなくなり、産業化ができなくなるのでは、と怖れていた。そこで、このラテン通貨同盟を壊すことに知恵を絞るようになったのだろう。
そこでまず、ラテン通貨同盟から半年後に、オーストリアを挑発する形で普墺戦争を起こし、力の差を見せつけた。普墺戦争という名ではあるが、デンマークとの国境のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の問題が発火点になったことからも、プロイセンの狙いは最初から北ドイツ、特にプロイセンの国土の真ん中に横たわっているハノーバー王国であったと思われる。ハノーバーの王家は、イギリス王家と同族であるということで、そこに戦争を仕掛ければ、当然イギリスとの戦争も視野に入るはずだったのだが、ラテン通貨同盟が結成される2ヶ月前の1865年10月に、長らくイギリスの首相を務めていたパーマストン卿がなくなっており、後を継いだジョン・ラッセルはパーマストンとの関係の悪さからも介入の可能性は低いと踏んだか、あるいは単になめられただけなのか、とにかくイギリスが選挙権の拡大問題で荒れている中、普墺戦争が始まり、そんな中でラッセルは議会改革の法律を出して敗れて辞職したのだった。このイギリスの政治的空白期間にプロイセンのハノーバー侵攻はどんどん進み、次の首相としてダービー卿が決まった翌日にハノーバーはプロイセンに降伏した。このプロイセンの手口を後にヒトラーがモデルにしたとしたら、このラッセルの行為は世界史上に残る世紀の愚策であったという事になりそう。
さて、この普墺戦争の結果、、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市がプロイセン領となり、北ドイツはほぼプロイセン領一色となった。一方、オーストリアに対しては、2000万ターラーの賠償金が求められた。普仏戦争の50億フランに比べると非常に少額なのだが、ターラーでの請求という所に何らかのミソがありそうに感じる。銀本位制の下で、自国通貨によって賠償金請求をすれば、自国に流通している銀貨が自国に戻ってくるだけのことで、重金主義的な考えからすれば意味が無い。他国の銀貨を支払わせて、それを鋳つぶして自国通貨で再発行しなければ、自国で流通する通貨が増えることにはならないからだ。そこで、賠償金をプロイセン通貨のターラーで支払わせる、という事の意味を考えてみると、プロイセン側でわざわざターラーに両替してそれを渡して支払わせる、などという二度手間をするとは思えない。だとすると、オーストリアに自らターラーを調達してそれを支払うよう求めた可能性が高い。しかし、プロイセンから直接調達しにくいとするとどうするか、という事で、おそらくプロイセンはこの時点で既に金本位という事を視野に入れており、フランの金貨とならば交換する、という事を伝えたのではないか。また、オーストリアは自らの意志なのかどうかはわからないが、普墺戦争後にウィーン通貨条約から離脱している。それもあったためか、翌年、オーストリアは、ラテン通貨同盟自体には入らなかったが、フランスとの間で銀貨の交換レートを定めた。それによって、オーストリアはフランスに投資しやすくなり、それでオーストリアの銀行がパリの土地バブルに突っ込んでゆく、という事があったのかもしれない。
普仏戦争を機にドイツが統一される、ということになり、北ドイツ連邦に参加していなかったバイエルンなども含めて雪崩を打ってドイツ帝国への参加という事につながっていった。当時のドイツには共和制の歴史はなく、神聖ローマ帝国からの延長で考えれば、帝政というのは一つの当然の帰結であったと言えそうだ。これに伴い、ドイツ帝国は金マルク紙幣を導入することとし、銀貨の鋳造をやめ、金兌換の紙幣に切り替えた。それまで広く使われていたターラー銀貨は、慣例に従ってマルクと交換できたが、新たな発行はなされないこととなった。一方で、そのマルクの裏付けは、普仏戦争の勝利の結果得た賠償金がベースとなって金となり、銀は公式には交換がなされなくなったのだった。これを主導したのはプロイセン出身のビスマルクであり、プロイセンは前に見た通り、ハンザ同盟から抜けるような形で自由都市となった都市群が中心となっており、そしてビスマルク自身の出身でもあるユンカーという農奴を所有する地主層が強い力を持っていた。農業という安定した収入源を持つユンカーは、物価変動に対する警戒心が強かったと思われ、その点で、増産の続く銀貨による価格の不安定化を望まなかったのかもしれない。

1800年代を通じて、ヨーロッパの人口は2億人から4億人にほぼ倍増しており、それに従って穀倉地帯であったプロイセンの経済的存在感は増しており、それを金本位制の導入によって確かなものにしたかったのかも知れない。また、ドイツの中で主導権を握るためにも、南部に多くある銀鉱山からの銀で作られる銀貨で繁栄を謳歌するハンザ同盟以来の自由都市群という枠組みを崩す必要もあっただろう。そのためか、1872年にターラー銀貨の鋳造をやめ、73年に金マルクを導入し金貨と金兌換のマルク紙幣の導入によって金本位制を導入することになったのだ。これによって、これまで取引の基本であった銀が駆逐されることになり、当然のことながら金融引き締めとなって不況に結びついたのだと言える。ただ、ドイツ自体は、穀物の輸出国なので、それで得た金をもとにして急速に産業化を進めてゆく事になった。

一方でアメリカでは、南北戦争中に何の兌換性も持たない不換紙幣のグリーンバックが北部で、グレーバックが南部で発行され、南北戦争の終了と同時にその処理が大きな問題となっていた。グレーバックの方は南部の敗戦とともに紙切れとなったが、グリーンバックは62年に法定通貨であると宣言され、そして利付の国債と交換可能な物として流通していた。その価格は金の価格に対しては全く安定せず、値下がりを続けていた。戦争が終わると、その紙幣、そしてその裏付となる国債を処理しないといけなくなった。リンカーンの暗殺直前に任命された財務長官のヒュー・マカロックは、銀行出身なので、金利の発生する金融制度の構築に熱心だった。そこで、紙幣を利付国債に、そして利付国債を硬貨に兌換する、という形での償還を考えた。それに対して、のちに悪名高き73年貨幣鋳造法を通過させるジョン・シャーマンは、紙幣はとりあえず据え置き、それよりも高金利で借りた国債の借換えを優先させるよう主張した。その修正案は通らず、結局そのままの利率での償還が始まった。その後、ジョンソン政権ではその政策が基本となって進んだが、そのジョンソンの弾劾の中心となったのがジョージ・バウトウェルだった。彼は、戦争中の62年に利付国債を担保に紙幣を発行するとの法律が出た直後に歳入局の初代長官に任命され、その間に紙幣の発行額がどんどん上がって、本人の意志がどうだったかはわからないが、紙幣濫発時の責任者となっていた。そんなこともあって、グラントが大統領になると、財務長官に任命され、その処理を担当することになったのだ。そんな動きを見越してか、グラントが大統領になる前の68年から、投機グループによる金の買い占めが始まっていた。その中にはグラントの妹婿も含まれていたとされ、グラントの関与の度合いはわからないが、とにかく金は値上がりしていた。そしてグラントが大統領になると、金が値上がりしたところで国庫の金を放出し、それによって少なからず財政再建に踏み出した。このあたり、ガチガチの勝負だったのか、それとも政治的取引があったのかはわからないが、いずれにしてもアメリカの財政状態は危機的水準であり、何らかの手を打つ必要があって、それなりにうまくやったようには見える。

しかしながら、グラント自身は軍人出身であり、経済についてそれほど深い洞察を持っていたようには見受けられない。背後にいた銀行関係者の提言に従ってそれを行っただけのように見える。その銀行・金融業界は、どうもその頃から世界的に金本位制に統一しようと考えていたようだ、その一環として、その頃から貨幣鋳造法の議論が始まっていた。これが通れば金価格は再び上がることが明らかなので、そこで取引があった可能性はある。実施後も評判の悪かったその法律についての議論は結局3年も続き、73年になって、投票の記録もないままに導入され、そしてグラントの1期目退任直前の2月に大統領の署名がなされ、4月に発効している。その間に、ヨーロッパでは普仏戦争があり、その賠償金を用いてプロイセンが金本位制を導入している。金価格が上がると、賠償金でプロイセンに流れる金の量が減るので、その間は貨幣鋳造法が通らないようにしておき、そしてウィーン万博に合わせるようにしてそれを通すことで、一気に銀価格の下落から株式相場に波及させ、オーストリアを追い込むという、プロイセンのシナリオに従ったのかもしれない。

グラントやシャーマンを含めて、当時の政財界の中心にはオハイオ州出身の人脈が多く存在していた。そのオハイオ、そして中西部全域はドイツ系人口が多いところでもある。金本位制は、そんなゲルマン系の政治情勢と密接に関わって導入されていった。まず、普仏戦争をきっかけに、1871年にドイツ帝国が成立し、その年に帝国内の新通貨マルクの金の含有量が法律で定められ、翌72年にはターラー銀貨の鋳造が停止された。73年2月、グラントが73年貨幣鋳造法に署名し、4月に発効した。これによってアメリカは金銀複本位をやめ、金本位に移行することになったのだが、銀の産出国であったアメリカは、輸出用の銀の生産を止めることはせず、その為に銀が旧大陸、特に金銀価格を固定していたラテン同盟諸国に流入しだした。それは、ナポレオン3世の後に2ヶ月だけパリ・コミューンが誕生し、その後再び共和制に戻っていたフランスの金融に混乱をもたらした。そしてそれは、フランスと銀貨の交換条約を結んでいるオーストリアにも影響することになった。5月1日からオーストリアのウィーンで万博が始まった一方で、それに冷や水を浴びせるかのように5日にスカンジナビア通貨同盟が結成され、デンマークとスウェーデンとの間で金本位制に基づく通貨体制が定まった。これは、ドイツ帝国での金本位制導入が近いということを感じさせ、そうなると銀資産は全て金によって評価替えしないといけなくなることを意味した。それは、既に下がり始めていた銀価格で換算すると、銀行のバランスシートが大きく毀損することになる。それを受けて 5月9日にウィーン株式市場の株価が暴落し、オーストリアの銀行が破産を宣言した。このあたり、時系列などがよくわからないので、正確な原因は特定しがたいが、おおざっぱに言えば、ラテン通貨同盟に正式に参加していなかったオーストリアは、欧州主要国で唯一金への兌換制が確保されていなかった国であり(ロシアは不換紙幣を発行していたが、既に銀や銅も含めて交換不能で恒常的破綻状態だった)、つまり、銀資産の洗い替えが市場価格でなされないといけない国であったのだ。それによって企業も銀行も会計上の経営状態、今で言うところの時価会計で金の価値に洗い替えすると一気に債務超過になったと言うことなのではないだろうか。このオーストリアでの混乱の後、7月になってドイツ帝国では金マルクが導入され、金本位制に正式に切り替わった。普墺戦争の原因となったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の相手国であったデンマークが直接のきっかけとなっていることからも、プロシアとオーストリアの主導権争いというドイツ統一への動きの延長線上にこの金本位制移行から大不況への流れは位置付けられるだろう。ドイツは全体とすれば銀の産出国であることを考えれば、この金本位制への移行が結局の所自らの首を絞め、二度の世界大戦へとつながっていったのだと言えそう。だとすると、ドイツ人が主体的にこのような金本位制への移行を行うとは思えない。それでは一体誰がその動きを主導したのか。
プロイセンは、フランスからのユグノーが支配層を占めている国であった。そして、プロイセン自体は銀がとれる地域ではなく、むしろ銀本位であるかぎり銀を産出する南部に主導権を握られることになり、かつてのフッガー家の系譜を嗣ぐような勢力を中心とした南ドイツの牙城を突き崩すことはできない。それを考えると、金本位制はプロイセン、そしてその金融や商業を担ったユグノーが主導したものであると考えられそう。そうしてみると、ラテン通貨同盟で一旦フランスに金を集めたあと、普仏戦争でナポレオン3世の身柄保証と引き換えにそれを巻き上げ、それを基にして自らが銀との交換を定めない金本位制を導入し、銀価格を暴落させて一気に世界の経済覇権を握るというビスマルクの戦略は見事にハマったように見える。しかしながら、覇権戦略とその後の安定成長を図るための計画というのは全くの別物であり、ビスマルクは、自らの世界政策の結果として起こった世界不況と、それによる長期的停滞の先を描く能力には全く欠けていたのだと言える。戦乱の20世紀をもたらした張本人はビスマルク、そしてそれを支えたユンカー・ユグノー同盟であったと考えて良いのかもしれない。

73年に入って急激に銀の流入量が増していたラテン通貨同盟は74年1月に銀の引き受けを停止し、金銀複本位制は機能しなくなった。ある国が金本位制を採用した時に、複本位性をとっている国からは、どんどん金が流出して銀が流れ込むことになるので、物価の安定が保てなくなる。だから、必然的に金本位制にせざるを得なくなり、そしてそれはますます世界的な金不足、デフレ傾向に拍車をかける。そのスパイラルが作用して世界不況となったのが1873年不況であったと言えそう。

さて、再度アメリカに目を移すと、グラントの出身地オハイオは、五大湖の南にあり、中西部への入り口とも言えるところだった。そこはネイティブアメリカンの中でもイロコイ族の力が強いところで、白人といえども簡単に勢力を広げる事ができなかった。それを、南北戦争のどさくさで一気に白人領化を進めていったのだった。以前、グラントの時期にはネイティブアメリカン政策が軟化した、ということを書いたが、何のことはない、南北戦争の時に広げたその地域を安定させるので手一杯で、更なる征服には手が回らなかったと言うだけのことだと言えそうだ。その西部開拓は、鉄道建設とは切っても切れない関係であり、その鉄道建設という巨大投資から利益を確保したいというのが金融業界の狙いであった。それが、紙幣や銀貨があふれてお金がジャブジャブあれば、投融資からの利子による利益回収ができない、と言うことになり、そこでマネーサプライを抑える政策を推奨したのだと考えられる。その好例としてジェイ・クック商会というのがあった。金融主導で鉄道建設を行う会社で、結局それが73年9月に破綻したことがアメリカでの不況の最初の実例となっていった。その社長のジェイ・クックの弟、ヘンリー・クックは、フリードマン貯蓄銀行という、解放奴隷のための銀行の運営に携わっていたが、約束した預金金利よりも低利で鉄道建設に融資する、というような事をした結果、解放奴隷からの貯蓄を踏み倒して倒産してしまった。それ以来、アメリカ解放奴隷の銀行に対する不信感はすっかり根付いてしまったという。こんな具合に、南北戦争とその後の金ぴか時代は、ネイティブアメリカンと解放奴隷を徹底的に踏み台にすることで成り立ったのだと言える。

1873年貨幣鋳造法によって国内流通用の銀貨の製造を廃止し、グリーンバックと呼ばれる紙幣を金兌換とすることで金本位制を導入したアメリカも、ドイツと同じく銀が大量に産出していた。当時は銀価格はまだ高かったのにも関わらず、今後銀の増産が続いて値下がりする、ということを理由にして、金銀複本位をわざわざ放棄して金本位としたのだ。それに相前後して、北欧などでも次々に金本位が採用され、各国が金準備を増やす必要が出てきて、それに対してこれまで通貨として通用していた銀価格が大暴落し、まさに悪貨は良貨を駆逐するという状態が発生して、金兌換の紙幣という紙切れが通貨の主流となっていったのだ。
国際通貨体制への対応では、ドイツとイギリスが金本位を支持する一方で、フランスと、自ら金本位への道を大きく開いたアメリカでも、金銀複本位への復帰の声が高まったという。すでに十分の金準備を持つ国と、流通している銀貨を回収するだけの金準備のない国との政策の違いが表に出たのだと言える。このあたりはそれぞれの国の中でも利害対立があったと考えられ、単純な国による色分けは余り通じなさそうに感じる。アメリカで言えば、農民層はマネーサプライが増える複本位制を支持し、金融業界が金本位制を求めていた。
準備資産が金に統一されるというのは、取引の基盤は整うが、それとはトレードオフの関係で世界的に発行できる通貨の量が金の保有高という上限によって定まるということになり、デフレ傾向が強まることになる。人口の急速な増大と相俟って、これが1873年からの長期不況の直接的な原因となったのだと言える。特に、鉄道建設などで活発な資金需要があったアメリカでは、これが景気を直撃した。アメリカの緊縮政策の理由として、一つには、南北戦争でグリーンバックが町中にあふれており、その裏付けを定めないとインフレになるというリスクを感じたということがありそうだ、実際、アメリカ国債は売り込まれており、対策がなければ破綻、という可能性もあったのかもしれない。しかし、それならば、裏付けのある、というかそれ自体価値のある銀貨を廃止する理由はどこにもなく、そこに、金本位に統一したい金融業界の意向というものがあったのだろう。グラントはデフレ対策のために紙幣増発を行い、それは、銀貨発行ならば発生することのない金利支払いを国家が行わなければならなくなる、という、経済史的には大きな転換点となった。つまり、国家経済が、貨幣の吹き替えによって手数料を得るというものから、貨幣とその裏付となる国債発行には金利が掛かるようになる、という、コペルニクス的転換が起こったのだ。経済を円滑に回すために必要な貨幣発行に、金利というペナルティが掛かること自体、社会に大きな負担をかけるものであると言えるのだが、その仕組がこの金本位制という制度の確立によってできあがったのだ。
結局、この制度の確立によって、アメリカ経済はじわりじわりと締め付けられ、グラント退任後の77年に成長エンジンであった鉄道業界でのストライキの頻発によって一つのピークに達した。それが原因となったかどうかはわからないが、その頃からまたネイティブインディアンとの衝突が激しくなり、更にフロンティアを西部に拡大することでアメリカは不況脱出を目指すことになった。78年に紙幣の金兌換を完全に回復し、それによって79年には一応不況からの脱出を達成することになった。

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