労働価値説の動学性

労働価値説というのは、古典派経済学の基礎となっているし、労働と価値を結びつけるのは倫理観としては非常に魅力的ではあるが、価値という安定が求められるものと、その動学性ということとの間で大きな齟齬を生み、それが経済学の矛盾の大きな原因となっているように見受けられる。そのことについて考えてみたい。

マルクス主義的革命と動学的労働価値説

マルクス主義は社会を科学し、資本主義を定量的に把握することで、革命によるその配分比率の変更を正当化したのだと言えそうだが、革命による比率変更の部分は全く科学的ではないのではないかという印象を受ける。つまり、古典派経済学で置き去りにされた労働価値説の動学的な部分を革命という形で一括処理しようとしているのがマルクス主義における革命ではないのか、と考えられるのだ。

革命というのは封建的支配に対する自由を求める動きであったはずが、このマルクスの理論によってそれが資本と労働の関係に貶められ、その本質が換骨奪胎されたと言える。つまり、革命を起こす側が、その主たる力である労働者を資本と対決するよう仕向けながら、君主に対する直接的な権利奪取部分を自らの手に納め、騒ぎが大きくなれば労働者を人身御供として差し出す原理を作り上げたと言えるのではないか。その意味でマルクス主義こそが、存在の明確な君主による封建制を隠れた厳しい階層性に基づく新封建制に作り替えたとすら言えるのではないだろうか。

労働価値説の動学性のもと

では、そのマルクス主義の偽りのベールを剥ぐためにはどうしたら良いのか。上に述べた通り、マルクス主義は、労働価値説のうち、その価値を示した財価格を市場の見えざる手で調整するという部分について、革命で調整するという手法をとったのだと私は解釈した。これは、アダム・スミスの理論を展開させたものだと言えるだろう。
スミスの文献は広範なので、読み違えている可能性は大いにあるのだが、私はこの部分がスミス的な労働価値説の限界を示している部分ではないかと考えている。労働価値説を採るスミスは、生産された財の価値はそれに投下された労働の価値と等しいという考えなのではないかと私は解釈する。つまり、労働の結果は財として結晶化され、その価値が貨幣によって取引され、それによって市場における財の交換が形成されることになるという解釈だ。これによると、財の価値は労働の価値によって固定され、それが市場によって取引されるので、財の価格は安定的で、それを見て消費者は静態的にさまざまな財の価格を比べ、購入を決めるという古典派的な市場イメージが出来上がるのではないか。この市場イメージは、基本的には財市場においてしか成り立たないし、しかも、価格の変化する財市場においてはうまく機能しない。もっとも、スミスは当然財価格の変化が市場を機能させると考えているわけで、本来的にはここが動学性の元となるのだろう。

リカード理論

労働価値の動学性というのはなかなか定義し難く、それが古典派経済学の迷走をもたらしたと言えそう。その第一段階として、スミスの理論を数学的に精緻化し、とりわけ分業について国際貿易に当てはめて理論展開したのがリカードであるといえる。リカードは、比較生産費説ということで、コストを安く作ることのできるものが比較優位をもつから、その生産に特化した方がお互いに利益を享受できるという理論を構築し、それによって貿易(すなわち分業)の利益を数学的に明らかにしたのだと私は解釈している。相互利益について数学的に明らかになったこと自体は大きな成果だとは思うが、問題なのは、それを数学化するために生産費の比較に集約した、ということであろう。リカードは労働価値説をとっており、生産費の違いは必然的に労賃の違いとなる。つまり、比較生産費説に基づけば、論理的にいかに労働者を安く使うかが貿易利益の中心となることは明らかだった。

自然価格と労働価値

ただ、リカードは労働市場の形成について明らかにしており、賃金には自然価格と市場価格があり、生活必需品の価格である自然価格に市場価格は影響されるとしている。労働の価値が、その原価に当たる生活必需品の価格である自然価格に左右されるというのは、会計的にはもっともなのだろうが、労働者的な立場からはなかなか納得し難いのではないかと感じる。自然価格というのは非常に難しいもので、個別の財、典型的には生鮮食品は、時を経るに従ってその価値を減ずるのに対して、自然価格を維持しようとすれば陳腐化した財は売れ残り、その労働価値はゼロとなってしまう。生産に労働コストをかけているのにも拘らず、売れなかったという理由で労働価値がゼロとなり、一方で自然価格は維持されるということになれば、少なくとも必需品に関しては、労働価値は常に自然価格を下回ることになってしまう。

スミスの労働価値説

スミス的な労働価値説が成り立つためには、生産された財の価値は固定され、それが市場での取引に付されないといけない。つまり、労賃は生産時点で支払われ、それが売れようが売れまいが生産した労働の価値には関わらない、ということでないと成り立たないことになる。しかしながら、もちろん日払い労働などはあるが、現実には一般的にはそれはあり得ずに、労働者は工場や会社で働き、典型的には月〆で労働に遅れて労賃を受け取ることになる。そして、資本が原価の中に財の陳腐化に関わる減損なども含めて価格設定を行い利益を出してその中から労働者に分配を行うことで労働価値説が近似的に実現されることになる。

工業と商業

ここに、工業的労働価値説と商業的労働価値説の違いが生じることになる。リカード的な考えは商業的な労働価値説であると言え、つまり、市場での売買が成立したときに労働価値が確定する、という考えなのだと言えそう。労働を、生産活動で評価するか、取引活動で評価するかという分かれ目が現れると言えるのだろう。本来的には、取引活動を生産活動から分離して、商業簿記と工業簿記とで分けて会計を行い、それぞれの労働価値を評価すべきなのだろうが、リカードは工場や企業ではなく、国家間の貿易でこの理論を考えたために、その違いが明確になっていなかったのだと言えそうだ。つまり、現状、会計的には商業簿記と工業簿記を分離することで労働価値説は成り立つような建付になっているが、マクロ経済的にはその解決はなされておらず、それをマルクスは革命によって解決しようとしたのではないかと言えるのではないだろうか。

マクロ的動学労働価値説

これをリカード的視点からマクロ的に捉えて、労働価値説を動学的に考えてみたい。まず、生産者は、すでに述べた通り、資本による管理コスト算入と労賃支払いの遅れによって労働価値説を近似的に実現可能だが、それは、マクロ的には、貨幣膨張によって金利を正の水準にとどめ、そして給与の支払いを遅らせることでその金利分によって減損コストをカバーし、それで自然価格水準に労賃を収めるようにするのだと言えるのではないだろうか。ただ、貨幣膨張下においては、物価自体は上昇傾向にあり、一般の自然価格は上昇しがちであると言える。つまり、見た目上自然価格水準にあるというだけで、マルクス的に言えばそれは常に資本家の労働者からの搾取によって成り立っているのだ、と言わざるを得ない状態であるとも言える。

商業の労働価値

一方で、さらに厄介なのは商人だ。商人は安く買って高く売るという原理でしか利益を出せないので、それを労働価値説という枠組みで捉えることは、労働観について生産者とは大きく異なったものを導入することになる。つまり、生産者から言えば、利益であるとしか言えない部分が、商人にとっては労働価値であるということになる。こうなると、商人は、いかに生産者から安く財を仕入れ、それを顧客に高く売るのか、ということが労働価値の源泉であるということになり、それは生産者の労働価値と真っ向から対立することになる。こうなると、労働価値説は必然的にゼロサムゲームとならざるを得なくなってしまう。

その上、この商人の働きが価格のシグナリング機能を作用させているので、それを否定したら市場における見えざる手は機能しなくなってしまう。こうなると、労働価値説の動学性というのは非常に難しい局面になってしまう。そこで、古典派経済学においてはこの動学性を無視することで、見えざる手が価格と数量を調整する、という単純明快な経験的事実を基礎とした静学的な市場を分析のベースとすることになっていったのではないかと考えられる。


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