なぜ広島に原爆が落とされたのか

世界で初めて原子爆弾が落とされるのに、広島という町が選ばれたのはなぜなのか。それには非常に長い歴史的文脈と第二次世界大戦開戦に関わる国内・国際政治情勢が複雑に絡み合っていた。

まず、広島には、中世に沼田庄という広大な荘園があったとされる。それは、今の沼田川流域、本郷や三原のあたりであったとされているが、厳島神社と関わりの深い平清盛によって後白河法皇の建てた蓮華王院(三十三間堂)に寄進されたともされ、また沼田(ぬた)郡という地名が平安期に豊田郡と変わったとされ、代わりにできた沼田(ぬまた)郡に現在の広島市域の多くが含まれているということもあり、実は沼田郡自体元から今の広島市周辺だったのではないか、と私は個人的に推定している。

ここでは細かな議論を避けて大きな流れだけ押さえるが、その後沼田庄は小早川茂平が領家の西園寺公経を通してその支配を認められたという。西園寺公経というのは西園寺家の初代で、藤原実宗の子とされるが、その後西園寺家がずっと公の通字を持つことから、実は徳大寺家の出身だったのではないかと、これまた個人的に考えている。その頃の当主徳大寺実定は平清盛と関係が良くなかったようで、そのためか別家を建てる必要が出てきたのかもしれない。いずれにしても、徳大寺家は公経よりも年下の公継が継ぎ、そして公経は西園寺となって鎌倉幕府と深いつながりを持ち、その後の西園寺家の隆盛の基礎を築いた。

このあたり、想像に想像を重ねているので、これが事実・真実であるなどという確証は全くないし、最後にもう少し別の見方もするが、小早川茂平というのは土肥氏から別れたとされるが、土肥氏ともども平の通字を持つということで、在原業平からつながっているのではないか、と想像している。在原業平は、東下りで知られる伊勢物語の主人公にも擬せられ、東国と深い関わりがある。一方で、東国に勢力を持っていたとされる平氏は高望王から始まるとされるが、その存在が京都に知れ渡った平将門の乱のころ、政権を担っていたのは藤原時平や忠平といった平の付く兄弟だった。これが本当に藤原氏だったのか、ということも私は全く個人的に疑っており、ここも細かな議論はしきれないので、想像による結論のみとなるが、彼らは実際には在原氏系の人々だったのではないだろうか。そして、将門や貞盛といったいわゆる平氏とされる人々が東国を支配している、という話を勝手に作り上げたのではないか、と想像している。実際、東国は将門の乱が起きた常陸を含め親王任国が多く、貴族といえどもその国司にはなれない地域であり、そこにいかにして食い込むのか、というのは一つの関心事であったといえ、その手がかりとして伊勢物語につながるような平の付く平氏というのが作られた、ということがあったのではないだろうか。

そんなことがあったためか、清盛という人物は、平氏を名乗って栄華を極めながら、実際には瀬戸内海を勢力の基盤とし厳島神社に帰依するなどしたものの、東国には全くといっていいほど縁のない生涯を送った。なお、厳島神社の神官家である佐伯氏は、東国の俘虜が元だったとされ、そして空海は流れこそ違えその佐伯氏の出身だとされる。その清盛が基盤とした沼田庄の領家であった、ということが、西園寺家の創設以来の権威の源泉であったと言えるのかもしれない。その後の西園寺家の動きを追うというのは、そのまま日本史を追っていかなければならなくなるのでここでは省くが、この西園寺家の清盛がらみの沼田庄の話、そして清盛の弟でその後の荘園の展開で重要な役割を果たす平家没官領を引き継いだ平頼盛との血縁(世代計算の異様さから、おそらくこれも系図をのちにつなげているだけだと思われる)というのが、西園寺家をはじめとした京の貴族による東国進出の大きな足がかりとなったと言えるだろう。

その後ずっと飛んで、明治の元勲として、西園寺家に、私が元の本家ではないかと推定している徳大寺家から入ったのだとはいえ、東山天皇の血を引くという西園寺公望という人物が現れる。この人物、明治維新後に10年近くフランスに遊学していたことは別に書いたが、彼自身は内務大臣にはなったことがないとはいえ、帰国後内務省を中心としてフランス式の中央集権的国家制度の確立に大きな力を及ぼしたと考えられる。実際、西園寺帰国後の内務大臣には、松方正義、山田顕義というフランスの影響の強い内務卿が続けて就ており、そこに西園寺の影響が感じられる。もっとも、地租改正を中心となって行い、戸籍制度や土地登記制度を短期間の内務大臣の間におこなった松方は西園寺よりも年上なので、そんな単純な図式では整理しきれないかもしれないが。いずれにしても幕末維新の頃のフランスは、普仏戦争に敗れるなどして国自体が大きな危機に瀕しており、そこにやってきた西園寺は、飛んで火に入る夏の虫、というべきか、利害関係の一致というべきか、新参勢力のフランスと一緒になって、とにかく明治維新によってようやく本格的に東国支配を行えるようになった西園寺家系ーフランスの筋で一気に西洋化を進めようとしたのだと言える。蚕の輸出というのもその一環であると考えられ、東国で伝統的に行われていた蚕から絹織物の生産というものを、フランスからの技術導入のおかげだとすることで、東国の歴史・伝統を消し去って自らの支配権を確立しようとする西園寺の東国支配計画の一部であるとみて良いのではないだろうか。その西園寺の弟が、前に書いた通り住友家に入った住友友純となる。

西園寺公望が没するとすぐに太平洋戦争に突入するわけだが、その後すぐに婿養子八郎の長男公一がゾルゲ事件に関わって廃嫡となり三男の不二男が後継となる。ゾルゲ事件についても非常に複雑なのでここで簡単に取り上げることはできないが、とにかくソ連、そして満州に関わる暗闘であり、そして後継となった不二男が、日本産業を満州に移して満州重工業開発株式会社を起こしていた鮎川義介の娘婿となっている。そのソ連ではユダヤ人のモトロフが外交を取り仕切り、鮎川が5万人のドイツ系ユダヤ人の満州への移民受け入れ計画を持っていたことを考えると、モトロフ系のソ連サイドと繋がっていたのは西園寺であった可能性が高い。また、満州にはアメリカも強い関心を持っており、鮎川は財閥スタイルではなくアメリカ風の株式会社による経営をおこなっており、アメリカとのつながりも深かったと考えられる。西園寺家の世代交代に際して、フランスベッタリからアメリカに舵を取る動きがあったということも十分に考えられ、その際の手土産として、広島にこもった平安時代末期以来のさまざまな入り組んだ歴史を原爆の悲劇にひとまとまりにしてしまうことで、西園寺の支配体系を温存してそれをそのままアメリカの管轄下にうつす、というような取引が為された可能性は十分にある。

西園寺の実働部隊は一つはビジネスとして住友に引き継がれたが、片や政治方面では、主流は代々広島を地盤とする領袖を担ぐ宏池会となるが、詳しくは別に述べるが、そこから直接西園寺につながるわけではない。むしろ歴史的文脈で見逃せないのが河野氏だ。実は、河野氏は安芸沼田庄との関わりで平家物語に登場している。諸本によって内容が微妙に異なるので、それが沼田庄に関わる問題を複雑にしている大きな原因であるとも考えられるのだが、細かな内容は省くとしてこの河野氏、戦国時代に至るまで内紛などを繰り返し、伊予西園寺氏や小早川氏などとも絡みながら伊予では戦国末期に滅亡している。

一方で、小早川氏はすでに書いた通り相模出身の土肥実平からつながるとされ、小早川という姓も相模の早川に由来するという。その土肥実平、吾妻鏡で出てきているものの、吾妻鏡の源平合戦の部分は他の部分とは毛色が違い、後から付け足された可能性が高い。吾妻鏡の元になる本として北条本と共に吉川本がある。これは、のちに毛利氏から元春という養子を入れた吉川氏が集めたものとされるが、その吉川元春は小早川隆景の兄にあたる。つまり、小早川に絡んで土肥実平という人物を吾妻鏡に盛り込んだ可能性があるのだ。ではその土肥実平がどこからきたか、というと、どうも『曽我物語』に出てくるのが最初のように見受けられる。曽我物語は戦国時代になってからの写本が残っており、つまり、戦国期に曽我物語に登場すると共に吾妻鏡にも盛り込まれた可能性がある。その曽我物語の写本は多くが日蓮宗の寺院に残されており、つまり土肥実平は日蓮宗によって作り出された人物であるのかもしれない。

それはともかく、土肥実平が戦国時代に初めて出てきたのならば、当然そこにつらなるという小早川茂平も戦国時代以降に作られたということになる。となると、最初の話とは少しずれてくるが、西園寺と小早川のつながりというのは、実は戦国時代以降に作られた、ということになり、それまでは沼田庄の話は河野氏が持っていたということになる。

西園寺氏が鎌倉時代の後に再び脚光を浴びるのは、まさに西園寺公望が徳大寺家から養子になってからのことであり、一方河野氏も、江戸時代中頃から少しずつ名前が出始めるが、一気に表舞台に出るのは明治維新以降となる。つまり、明治維新の時点で河野氏が西園寺に沼田庄の話を売り、西園寺は家名の復興とフランス経由での中央集権国家建設の中心的役割、一方河野は土肥氏由来の小田原の地盤を手に入れ、そこから一郎、謙三、洋平、太郎の政治家一家が生まれることになったのではないか。小田原は、河野氏と繋がりの深い時宗と共に日蓮宗が非常に強いところであり、浄土系と法華系の現世利益宗教を両手に抑え、それによって圧倒的な政治力を手に入れたのではないか。河野洋平のいう政治工学とは、このような平安時代末期から原爆投下に至るまでの広島における歴史的文脈を背景にしたものではないだろうか。

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