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名前

私の名前は「英未」と書いて「えみ」と読む。
イギリスで自己紹介したとき、「それは英語の名前?」と聞かれるが、日本語名である。

これまでは、名前に英語の「英」があるのに、英語を操れないことにすこし自分の中でコンプレックスを抱えていたが、英語を話すようになったいま、なぜイギリス(英国)にいるのかという答えも得た。

私の名前の由来は、「英雄のように未来を生きる」である。

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1991年に生まれたとき、母は私が世界に飛び出していくとは思っていなかっただろう。いや、もしかするとそんな気がして、私にこの名前を授けてくれたのかもしれない。

いまは亡き母。私の信じる神様は、母を私から取り去ったけれど、その7年後にイエス様に出会わせてくださった。母からの愛はとても言葉にできないほど壮大で、その愛にずっとずっと留まっていたいと思う。でも、イエス様の愛は、母親からの愛以上に大きいもの。なぜなら、その母をも愛してくれている神だから。母を創造し私を母から産ませてくれた神だから。

イエス様と出会った時、イエス様を受け入れずにそのまま生きていくという選択肢もあった。でも、私は、「楽しい」道を選んだ。私は、生きる道を選んだ。そのとき、人生が変わった。

母を亡くし、悲しみに暮れていて生きる価値を見いだせなくなっていた私に命の泉を注ぎ、聖霊の温かみで満たしてくれた。私は愛されている、母から受け取った愛以上の愛をイエス様から頂いていると知った時、嬉しくて涙がこぼれ落ちた。

いまは、その愛の中で生きている。

いろんなカルトとかあるなかで、「宗教は怖い」と思っている日本人は少なくない。

しかし、私にとって、神様・イエス様・聖霊様はすべての造り主であり、そこに「宗教」でカテゴリーされるものはないのである。神は神であり、唯一なのである。

暗闇から私を救い出してくれたのは、他のどんな八百万の神ではなく、イエス様だった。

キリスト教は「西洋の宗教」だとか、色々なネガティブなイメージもあるかもしれない。「教会」と付くだけで一歩後退りされる方もいるかもしれない。

私は東京でイエス様と出会い、これまで「信じていた」一切の八百万の神から身を引き、ただイエスだけを信じることにした。そして、いまがある。

いままでしがみついていた迷信や偶像を全て取り去り、イエスだけに着いていくことに決めたのは、神様・イエス・聖霊だけが本当の神であることを知ったから。そこに論理的な理解や科学的根拠があったわけではない。私たちの目で見ることのできない創造主の神が確かに私にそう語りかけたのである。

私は英雄のように未来を生きるためにイエス様に造られて生まれてきた。

イエス様は、扉の前に立って、私が扉を開くのを待っていてくださった。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

ヨハネの黙示録 3:20

私は、扉を開いた。

扉の先には、喜びがあり、悲しみを越えた憂い赦しがあった。赦しは私を縛っていた鎖を引きちぎり、私の心は自由に解放された。いままで目に見えない悪霊や死の恐怖に怯えて生きていた私。イエス様を信じた時、イエス様は私から恐れを、死さえを打ち破って私を救ってくれた。解放された時、鉄の鎖のチェーンが解かれた時、何にも変え難いやっと解かれた自由を得たのだ。死はもはや私を支配することはできない。イエスは死さえも打ち破り、生き返り、この地上に現れたから。

絶対的な神様を信じた時、この世で恐れていたすべての悪霊の悪戯、恐怖から解放され、嬉しさと楽しさ、救われた喜びに心躍る。

救いの恵みは、あなたにも必ず訪れると信じます。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書 3

苦しんでいた私にとって、信じることは「生きる道」であった。信じた今日、信じ続けてきたことは、喜びの道であり、未来は、神からの平安と恵み、祝福を意味するのである。

0わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。

ヨハネの手紙一 4

私の信じた神は、救い主は、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた方。(出エジプト記 34)

私の神様は、私を暗闇から救い、楽しい喜びに満ちた第二の人生をくださった方。
一緒に賛美する仲間をくださり、必要なものを必要以上に満たし、人生の全てにおいて恵みをくださった方。
悲しみや困難を一緒に乗り越えてくださる方。
私のことを「友人」と呼んでくださった。
私が悲しむ時、一緒に、私以上に悲しみ憐んでくださった方。

私を心から愛してくださっている方。

そんな神様なのです。

最後に、イエス様はいつでも、私たちの扉の前に立っています。開けるかどうかは私たち次第。扉を開けたあなたの人生は。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

ヨハネの黙示録 3:20

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