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イギリスで過ごすクリスマスについて考えてみた

クリスマスは、Philip Projectという聖書を学ぶコースでお会いした中国人の姉妹(友人)の家で過ごした。

初めて会った日に、「クリスマスは何するの?」と聞かれて、「26日はディナーの予定があるよ」というと「クリスマスの日は?」と聞かれ、「クリスマスの日はまだ決まってないけど。。。」というと、「じゃあうちにおいでよ。一緒に過ごそう」と言ってくださった。Nancyは中国人で旦那さんはイギリス人。私とNancyは中国語で話す。だからかもしれないが初めて会った日なのに距離が一気に縮まった。

出会って初日に一緒に家でクリスマスを過ごす招待をしてくれたことがありがたかった。でも一方で、出会った初日にクリスマスを一緒に過ごすこと、そして二日間も家に泊めてくれることになるとは思わなかったし、彼女はすごく私を信頼してくれているのだなあと思った。クリスチャンの姉妹であるが、なかなか勇気のいることだし、旦那さんにもその場で「えみに来てもらっていいよね!うん!」と決めてしまったからだ。

ちなみに、クリスマスの25日はイギリスの公共交通機関、スーパー、その他ほぼ全てのお店が閉まる。そのため私は、24日の日曜日にカンタベリーからロンドンへ向かうことにした。

クリスマスとは

1そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 2これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。 3人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。 4ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。 6ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、 7初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

マタイによる福音書 2

私たちが「クリスマス」としてお祝いするのは、イエス・キリストの誕生である。イエス様は神であったが、家畜の小屋で生まれた。決して綺麗な場所ではなかった。「人の子」と呼ばれるイエス・キリストはヨセフとマリアという二人の子どもとして生まれた。神であるのに。でも、人として育ったイエスだからこそ、私たち人間の痛みが分かり、喜怒哀楽があり、人を愛するのだ。イエスは32年間の間、人として生まれ、人として育ち、人として、そして神として人を愛した。

さて、イエスが生まれることを知った東方の博士は、神であるイエスを拝み賛美するために、イエスの生まれた家畜小屋へと向かった。

2「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。

マタイによる福音書 2

そう、星に従ってはるばる歩いてイエスに会いに来たのだ。

9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。 10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。 11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。

マタイによる福音書 2

家畜小屋でお生まれになった赤ちゃんイエス・キリストを博士たちは拝み、喜びに満ちて帰っていった。イエスの人の子としての道はこうして始まった。人の子として生まれた神として、イエスは、傷ついた人々を癒し、家族を愛し、弟子を愛し、この世を、憎しみに満ちていたこの世を愛して天に昇っていく。そして今も、今現在も天の御座に着いておられるのだ。

さて、私はクリスマスをロンドンの友人の家で過ごすために、日曜日、クリスマスイブの日にCanterbury West駅からSt. Pancrus International 駅へ向かった。

まずは、10時半からの礼拝に参加するために、Notting Hill Gatesへ向かった。私がロンドンにいた頃、通っていた教会、St. Peter Notting Hillだ。今年6月に日本に帰る前にお別れを言った仲間たちと、再会をハグして喜んだ。その後、教会で一番仲の良かったThewyeとお茶をした。今回は私がご馳走させてもらった。というのも、いろんな機会を繋いでくれた彼女に大変お世話になったからだ。ジンバブエから来た彼女は70歳くらいであろうか。でも、私の大の友人だ。


そしてElthamに住む中国人の友人の家に向かった。この頃はもう疲れ切っていた。プレゼントを持って家に着くと、まず30分ほどベットに横にならせてもらった。食事の前に、疲労困憊だったからである。

夕食には、近所に住む楽楽さんという北京から来た方も加わった。二匹の犬を連れてきてくれた彼女。もともとこの家にいたゴールデンレトリバーも合わせて三匹と大人4人。犬は一匹吠えると他の二匹も吠えるので、もう大合唱。話の途中、何度も犬たちに遮られた。笑

楽楽はクリスチャンではないけれど、私たちは彼女のために祈ることもできた。その夜、ぐーすか寝た。

翌日、教会に行く前にNancyの友人の家で朝食をとり、プレゼントを交換した。私はこのコミュニティに来るのが初めてなので、私以外の方々がプレゼントを交換し合っていた。私もきた人たち皆にCanterburyから持ってきたプレゼントを配った。

教会は、子どもたちを交えた礼拝だったので、笑あり、ゲーム中心のものだった。そして、ランチ兼夕食を香港と台湾のカップルと共にした。食事はブリティッシュで、クリスマスプディン(プリンと言えども、ケーキである)を食べた。満腹のうちに、今度はクラッカー、チーズ、ハム、サーモンの載った木のまな板が運ばれてきて、クラッカーにのせて食べた。美味しい。こんな贅沢な食事はクリスマスの日だけ、みたいだ。

その後、皆でモノポリーという人生ゲームのようなものをした。ラジオでは、イギリスで行われていたクリスマス礼拝の様子が流れており、私はどちらかというとそっちを真剣に聴きたかった。



クリスマスを過ごすって

クリスマスの過ごし方について、考えさせられた今年のクリスマス。去年は同じく教会で出会ったクリスチャンの方の家にご招待され、皆で過ごした。今年は、モノポリーというゲームをして過ごしたが、そこに、イエス様はいなかった。クリスマスランチとプレゼント、そしてゲームがその大半を占め、私たちは祈りと神様への賛美を忘れていた。何か物足りなかった。何にも満たされなかった。それは、私たちが感謝ではなく自分たちのお腹を満たすこと、そして世間的なプレゼントやら人生ゲームに時間を費やして過ごしていたからである。
もちろん、有り難く楽しい時間を過ごしたけれど、本当に過ごさなければならなかったのは、イエス・キリストの誕生を祝い喜び、そして私たちの罪が赦された喜びに満ち、死からも復活されたイエスの奇跡を想う日だったのだはと思うのだ。

イギリス国王、チャールズ3世が聖書を読み、スーパーも公共機関も全て閉まって国の祝日となり、国全体がクリスマス一色となるイギリス。そんなイギリスでは、家族でクリスマスを過ごすのが伝統になっている。一方で、この長い休みに暖かい気候の国々に旅行に行く家族連れも多い。クリスマスって一体何のために、何を祝うために、何を喜び思い出すためにあるのだろう、と考えずにはいられなかった。イエスの誕生を祝うクリスマスの日に、イエスのことはどのくらい語られていたのだろうか。どれだけの人たちが、イエスの誕生を心からお祝いし、私たちが罪から解放され自由になったことを祝福したのだろうか。そう思わずにはいられなかった。

26日はNancy夫婦はカンタベリーまで車で送ってくれた。カンタベリーに着くと、私の部屋でお昼のサンドイッチを食べて、カンタベリーを観光した。


そしてその日の夜は今度は教会の先輩Johnとその家族との夕食に呼ばれ、楽しんだ。ここ数日、お腹は満たされてばかりだった。

27日、やっとスーパーが開いたので、買い出しに。牛乳など含めて、たくさん買った。一人で部屋に帰ったとき、やっと落ち着くことができた。クリスマスは、楽しいもの。でもそれ以上に、思い出さなければならないことがある。イエス様の存在なしに、私たちはクリスマスを祝えない。なぜならクリスマスは、イエス様あってのものだから。

クリスチャンである私たちでさえ、食事やプレゼント交換、ゲームやお財布事情について話すことで忙しく、本当に大切な核心的な喜びを味わうことを忘れてしまっていた。

クリスマス休暇の後、ホリデー(家族との食事の準備や接待、旅行など)に疲れすぎて、同じくらい長い休みをホリデー後に取りたい気持ちになった人は少なくないのではないだろうか。
私は招待された身であるが、ロンドンに行ったり、知らない人に会ったり、食事をしたり、なんだかんだで短い間にいろんな人に会って、それも一日中人と一緒にいるので、疲れ切って帰ってきた。もちろん、幸せな疲れなのだが、そこにイエス様のことを思い出したかったという思いで悔しくなる。

来年は、教会で過ごそう。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。


ルカによる福音書 2:11
新共同訳: Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳

イエスは、2000年以上も前に、家畜小屋でお生まれになった。そして、十字架に付けられ、亡くなっていった。それだけでは終わらなかった。3日目に蘇り、私たちはまた喜びに満ちた。そして今度は、天に昇っていかれた。永遠に、神の御座につかれたのだ。

大いに喜ぼう。そして、いつ喜んでも、遅くないことを喜ぼう。罪赦され、永遠の命が与えられた身、毎日喜んでも間に合わない。いつ喜んでも、いつ救われても、遅くない。できれば、早めに赦され喜んだほうがいいけれど、今だって、いつだって遅くないんだ。

イエス様の誕生を喜ぼう。そして赦された喜びを分かち合おう。クリスマスの喜びは特別だけど、赦された喜びは毎日でも間に合わないくらい素晴らしいものなんだ。

イエス様、私に自由をくださり、第二の人生をくださりありがとうございます。信じていなかったときの私の人生は終わり、信じた日から、新しい人生を下さったことを感謝します。これからも、私を、私たちを祝福してください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

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