見出し画像

人に必要とされたいと心が叫んでいるんだ

どうも、気になってしょうがない人がいる。その人を見ると、なんだかとても心が痛むのです。

1.彼女を見てると心が痛む理由

それは、「不要不急は本人が決めること」といった丸川珠代五輪担当大臣のことです。

五輪担当大臣になってから、この方は何を聞かれても「知らない」もしくは「わからない」しか言ってないのではないでしょうか。何かをコメントする上で、なんにも「知らない」人、丸川珠代五輪相。そういえば、唯一の公約は「タピオカ容器の統一」でした…。もはや、懐かしさすらありますね。多分ですけど、タピオカ容器の統一は政治家のやらなきゃいけないことではなさそうな気がしますが、それはともかく。

この何カ月かの丸川珠代大臣がいかに何も知らないかいくつか挙げてみます。本当はもっとたくさんあったのですが、書ききれないので省略します。

・五輪組織委員会が企業に業務委託する人件費について「守秘義務で見せてもらえない」

・中国オリンピック委員会からワクチン提供の申し出について「伺っておりません」

・観客上限を決める期限を日本側が4月、としていたのに対し、IOCのバッハ会長が6月ころでいいんじゃないか、と言ったことについて「伺ってみないとわかりません」

・緊急事態宣言が五輪に及ぼす影響について「いまのところ答えられません」

もしかして、この人は五輪がいつ始まっていつ終わったのかも知らないのでは?と思わせるこの「知らない」セレクション!

もう一つ、気になったところは夫婦別姓について国会で答弁を求められたとき、爆笑しておられたこと。ご自身は夫婦別姓で活動されていて、「こんなに困っているひとがいるんです」と訴えがあった時のお話です。あれは、ご本人自身を嘲笑している笑いに見えて、メンタル病んでるのかな?と思いました。

なんでこんなに気になるのかな…そして、痛々しいというか悲しい気持ちになるのはなんでかな、と今回改めて考えてみることにしました。

彼女を見ていると、なんだか心がざわざわする。イライラする、というよりも悲しい気持ちになります。そして、10代20代前半のなんとも嫌な気持ちを思い出してしまうのです。これは何なのだろう。

2.わたしはかつて、劣等感の固まりでした。

わたしはかつて劣等感の固まりでした。

これといって勉強ができるわけでもなく、容姿は十人並み。特別な音楽や芸術の才能もなく、普通の人。親や親せきや教師などの周囲の大人には「適当に」学校を出て「適当に」働き、「適当に」結婚して「適当な人数の」出産をする。そんなことを求められていたように思います。頑張って高望みをすると「(女の子なのに)そこまでしなくても…」と言われ、社会の一員として枠から外れそうになると「(女の子なのに)みっともない」と言われました。

それは大人たちだけではありません。同年代のあいだでも社会とは、実存とは、違和感とは、そんな話をする相手はとても少なく、それはわたしの人間性が貧しいからだと自分を責めることにつながりました。

「そんな固いこと考えても、どうせ何も変わらないし」「えーわたし、よくわからないし」「ていうか、このドーナツウマくない?」口にする言葉、口にしない言葉はわたしの劣等性を肯定することになりました。口に出さない人間関係しか築けないことがわたしの劣等性の証明だと感じ、行動できないこと、表面的な付き合いに終始することでさらに劣等感を高めました。

さて、そんな劣等感の固まりであったわたしにも魔法の言葉がありました。それを言われると、わたしはここにいていいんだ、という気持ちになり、社会の一員にしっかりなれて、自分の居場所ができた気持ちになりました。その言葉はこちらです。

「君が必要なんだ」

仕事でもプライベートでもそういわれると、それがたとえ自分の本意とちょっとずれていても、そうかな?わたしのやりたいことはこれだったのかしら?と頑張ってしまう。またはこれがわたしの生きる道かしら、と思ってしまう。自己肯定感のなさが半端ないですね。

人間は器用なもので、かつて10代のわたしが疑問に感じていたこと、苦しくて辛くて学んだことは刹那的な事態に紛れて忘れていきました。だんだん疑問を持たなくなって「適度に」行動していることで「それがいいんだ」と思うようになりました。だって、必要だって言われているし。

時は止まらず人生は進んでいくので、会社員として「適度な」出世をしたり、結婚や出産を経て「だって、必要だっていわれているし」という誇りが心の中に降り積もっていきました。けれど、ほんとうは知っていました。自分の力で得た、と思っていたものたちがそうでもないかも、ということに。そもそも赤の他人から都合よく「必要だ」と言われたことで得た自己肯定感なんて立場と人が変わったらあっさりなくなってしまうもの。なくなったと思っていた劣等感はいつしか噴水となり吹きあがっていきました。

3.劣等感からどうしたら解放されるのか

わたしは役割(娘として、母としてetc)以外に必要とされているの?

わたしは一体何がしたいの?

そもそもわたしは生きている意味あるの?

丸川珠代五輪相を見ているとそんな風に思っていたころを思い出して苦しくなるのでした。劣等感の固まりになると、集団内のポジション取りに腐心してしまうので、集団に非常に従順になってしまうと言われていますが彼女の姿はそれが間違った論ではないと証拠づけるかのように感じられます。もちろん、彼女の内心なんて知りようもないですし、知ったら全く違うのかもしれませんけどもね。わたしは息苦しさの原因がわかってすっきりしましたから、どっちでもよくなってきました。

一番ひどく劣等感にさいなまれていた時は、子どもにその劣等感を負わせようとしていたので、子どもたちが全員面倒くさくなるくらい意思がしっかりしていてよかったです。

わたしは自分が好きなものがはっきりしていたので、家族の協力を得て好きなものとがっつり向かい合ってみて、「必要としてほしい」「生きていてごめんなさい」と思うことがなくなりました。

一旦個人として世界に立つことができれば、「君が必要」なのではなく「わたしがわたしを必要としている」世界に行くことができると知りました。その上で家族を含めた「仲間を守りたい」「仲間のために戦いたい」と思えるようになるのだと、利他的でありたいと願っています。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?