見出し画像

こころのひみつ道具はここに。

「ねえドラえもんのひみつ道具で何が欲しい?」
日本で子ども時代を過ごした誰もが一度はこの質問をしあっているのではないでしょうか。私は大変ロマンのない人間なので、「そりゃあ、「どこでもドア」でしょ。遅刻しなくていいじゃんなんて言うわけです。

辻村美月『凍りのくじら』は日本で成長した(もしくは成長中の)すべての人の問い「あなたはどのひみつ道具?」を通して主人公の高校2年生の一年ほどを振り返る形式の短編連作小説です。物語のちょっとしたアイテムとして出てくるひみつ道具の使い方がすごく心地よくて、よく考えてみたら、ドラえもんと同じく「ひみつ道具は使うけど、ひみつ道具それ自体が物語の解決をまったくしない」ところではないかと。道具はあくまで道具なんですよね。

さて、物語はドラえもんが大好きだった失踪した写真家の父をもつ理帆子の高校2年生のある時期をとおした連作短編小説です。父の影響で理帆子もドラえもんを愛読しています。作者の藤子F不二雄先生(作品内で理帆子の父が一つの名詞のように「藤子F不二雄先生」と言っていたので、この場はその表記をします)がSF(サイエンス・フィクション)を「sukoshi fushigi(少し・不思議)」と言い換えていたことから、理帆子は周囲の人間をこっそり「スコシ・なんとか」と言い換えています。
例えば、自分のことは「スコシ・不在」。クラスメイトの生徒会長タイプの子は「スコシ・憤慨」いつも問題を見つけて怒っているからです。素直で明るくかわいいけど、ちょっとお勉強ができない合コン友だちは「スコシ・フリー」といったふうに。
心の中でひとにあだ名をつける、という経験は多くの人にあると思いますが、理帆子の場合ちょっと上から目線すぎ。一事が万事、こんな感じで主人公の理帆子は自分はみんなとちょっと違う、と周囲を馬鹿にした姿勢を持っています。なのに、孤高ではいられない不器用さもあって、学校では学級委員にもいい顔をすれば、その学級委員にいじめられてる子にもいい顔をする。別れた元カレからの連絡も着信拒否にはできない。断れないから、心の中で距離を取って観察してしまう。そういう自分の優柔不断さを許す魔法の言葉が「スコシ・不在」。まあ私に言わせると「スコシ・スカしてる」んだな。
本書の題名は『凍りのくじら』。これは流氷に挟まれたクジラがだんだん海の底に沈んでいく姿のことをあらわしています。だんだん息苦しくなって、海の底に沈んでいくのは「スコシ・不在」だから…。

「スカしてる」理帆子にはまったく共感できないのに、物語の進行とともにスカしている理帆子の「不在」が理解でき、感情移入してしまうところがこの物語の力です。人生においてひとはいつまでも「不在」ではいられない。テレビや映画のスクリーンの外にいる傍観者のつもりが、参加者だったということに気づくのです。ひとはそれぞれ自分の人生において圧倒的な参加者です。

非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でい
えば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。

小川洋子『物語の役割』ちくまプリマ―新書

物語というものは、人のこころへの栄養です。物語を摂取することによって自分の人生を意味付け、この世界の様々な問いをみつけることができるとノーベル文学賞受賞のユダヤ人作家 I.B.シンガー(1902~1991)が語っていますが、『凍りのくじら』はまさにそんなこころに栄養を与える本です。体の栄養、頭の栄養ばかりでなく、こころの栄養をぜひこの一冊から摂取してみてください。

この記事が参加している募集

読書感想文

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?