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「渋染一揆」再考(13):倹約令(1)

「渋染一揆」は、安政2(1842)年12月に出された「倹約令」(倹約御触書)に端を発する。この触書は全文29か条からなり、そのうち前24か条は、郡中すべての領民を対象としており、残りの5か条が穢多など被差別身分にのみを対象に追加(付加)された。

「倹約令」とは、幕府や藩が財政危機に際して頻繁に命じたものであり。その目的は財政支出を抑制するためのものと,庶民の奢侈禁止・節約など消費の抑制を規定したものとがある。
庶民(百姓や町人)に贅沢を禁止し節約を命じて支出を抑えさせ、年貢増徴を断行して年貢などの収入を増やそうと画策したと解釈してしまいがちであるが、必ずしもそうではない。

「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの」「百姓は生かさず殺さず」などの言葉から「農民は死ぬ一歩手前まで年貢を搾り取られていた」「貧窮状態だった」など江戸時代の暗黒のイメージが一人歩きしているが、実際はそうではない。
この言葉は徳川家康が言ったという説と、家康の謀臣であった本多佐渡守正信が言ったという説があるが、本来の意味は「毎日の生活に困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最も良い方法である」という意味である。その証左に、本多の言葉として「百姓は、天下の根本なり。是を治める法あり。(中略)百姓は、財の余らぬように、不足なきように治むる事、道なり」というものがある。


では、「渋染一揆」の発端となった「倹約令」の目的とは何であったか。
それは<支出の抑制>である。つまり百姓への「加損米」などの支出を減らすためであった。

年貢の減少に反比例して、農村救済のための、加損米支出の方はますます激増した。郡代下方平馬・津田源右衛門は、「近年は拠無き儀と乍申、新願出之所多、惣辻(総合計)に而は年々相増、際限も無之事に候、既去元文之頃(1736~1740)迄は、御郡之辻高凡六千五百石ばかりに候処、宝暦より安永之末(1751~1780)迄少々宛増減も有之、凡辻高八千石内外に有之候、然る処、近年相増、去年等は惣辻壱万石に近き様に相成」ったと頭を痛め、このまま加損願を聞き届けていては際限がないので、「当年より先、御加損米新に願出候而も御聞届無之候」と、新規の加損願は一切うけつけない、という原則をうち出している。
ところが、これはまだ天明六(1786)年のはなしである。農民の要求がほんとうに熾烈になってくるのは…19世紀に入ってからであるから…享和二(1802)年には、懸念されていた一万石台を突破し、10,510石余を記録し、明治元(1868)年になると、32,379石余という想像を絶する巨額にのぼったのである。

(柴田一『渋染一揆論』)

柴田氏が執筆を担当した『岡山県史 近世Ⅲ』第一章第一節に「加損米」についての記述がある。

一度大凶作が続発すると農民の疲弊は著しく、耕作の手が行き届かないため田畑は瘠せ、高率の年貢負担に堪えず村方に投げ出す。これが散田手余地であるが、享保の大飢饉以後これが増加した。1732年(享保17)には、「近年御百姓共段々勝手ニ罷成、田畠荒候て手余り地大分ニ多」くなった。そのため(岡山)藩は郡奉行・郡目付・在方下役人に村々の実情を吟味させ、領内の高免の村に対し、総額で1500石の免下げを実施した。
しかし免下げは例外的措置で、疲弊した農村の復興は普通は「加損米」の支給によることが多かった。
…加損米の支出は当然藩財政を圧迫するが、郡代官藤岡勘右衛門・小堀彦左衛門が、「御加損不被下候得は、秋毛見大躰之出来ニても毛見多ク罷成申候」というように、加損米を支給しないと耕作が手薄になり、秋の収穫時に毛見願が続出して年貢減収になった。そこで民力涵養・年貢増収のため、やむなく加損米を支給したのである。

岡山藩に関する研究に、古典的名著である谷口澄夫氏の『岡山藩政史の研究』がある。岡山県史や柴田一氏の研究も谷口澄夫氏の労作に依拠している。「加損米」についての説明を引用しておく。

…免上げよりもむしろ藩当局が苦慮したのは、災害による凶作・不作に対処して、農民の疲弊を如何に防止するかであった。かくして年貢宥免(免下げ)・加損米・用捨麦・毛見・徳守などが問題となるのである。
…免下げの一つに加損米の制がある。これは悪田所又は免不相応の地所で、作力がなくて難儀をしている村々へ、春のうちに米何程ずつと立て下されるもので、秋上納の中からそれだけ減ずるのであるから実質は「捨」(免除)である。加損米は年切りが原則であるが、二・三年かいし五年という年限の定めもあり、村役人が下積りをした帳面を郡奉行に指し出し、郡奉行は郡目付・下役人とともに地所を検分して割賦を吟味することになっていた。加損米を下されている田地は売買は禁止され、またもし毛見を請けたら加損米は取り消されるのである。ともかく加損米は農民救恤の一種である…

どの藩でも同様に、疲弊した村々に対する救済を行っているだろう。従来言われてきたように、苛烈な年貢の収奪のみを行っていたわけではない。農村が荒廃し、百姓が逃亡すれば、結局困るのは藩であり武士なのだから。
しかし農村を救済するために減免や救米・加損米を支出していけば、その負担は多額となり、藩財政は窮乏化する。

さらに藩を苦しめたのが、幕府に命じられる「御手伝普請」(国役)などである。「渋染一揆」の直接の原因である「倹約令」においても、嘉永六(1853)年の「黒船」来航以後、幕府に命じられた房総半島、摂津沿岸の警備のために家老以下千数百人もの藩兵・人足の動員による巨額の出費、さらに翌年の中国中大地震の災害復興に多大な出費を必要としたことによるものであった。

積年の赤字は蔵元鴻池などからの借銀によってまかなってきたが、その元利合計は、安政二(1855)年には銀24,677貫目に及んでいる。その頃の岡山藩の年間支出総額は約7,000貫目であったことから、その借銀の莫大さがわかるだろう。

蛇足だが、『岡山県史 近世Ⅲ』に蔵元鴻池に関する記述がある。

財政再建に当たり一番厄介な問題は、藩の蔵元鴻池の対策であった。大坂廻漕の年貢米を鴻池に買い叩かれ、そのうえ借銀元利返済分として多額の天引きをされるかぎり、藩は窮乏から脱出することはできない。

なぜ「倹約令」なのか。それは、農村や百姓を救済するための「加損米」などを減らすためであった。百姓の生活全体において細かく規制する。絹類などの贅沢品を禁止し、祭礼などの祝事を簡素化する。それによって百姓や農村が支出を減らすことになり、藩からの救済を減らすことができると考えたのである。
しかし、ことはそう単純でも簡単でもなかった。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。