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津山の「解放令」

机上に、『津山市史』の第五巻 近世Ⅲがある。先日、偶然入った古書店で、第3巻と合わせて手に入れたものである。『津山市史』は、津山郷土資料館にて全巻PDFで公開しているが、やはり書籍として持っておきたい。

学校の図書室には岡山県史はもちろん、学区に関係する市町村史は寄贈されているが、社会科の教師はどれほど利用しているだろうか。教科書に記述されている出来事、それらが郷土とどのように関係しているか、それを調べる上で県史や市町村史は最適な参考文献であるが、そこまで教材研究に活用する者は少ないだろう。

上記の『津山市史』第5巻は「幕末維新」について記述してある。「開国論と攘夷論」「長州征伐」から「王政復古」「版籍奉還と廃藩置県」まで、全国的な動きに呼応した津山藩の動向が書かれている。たとえば、「長州征伐」に際して津山藩も出兵を命じられている。これに対して藩主が建白書を幕府に提出していることなどが記載されている。他にも興味深い記述は多いが、これだけでも教科書記述と郷土との関わりを補足でき、生徒に歴史を身近に感じさせることができる。


いわゆる「解放令」(賤民廃止令:賤称廃止令)に関しては、布告後に各地で混乱が生じたことは史料に残されている。津山藩ではどうであっただろうか。

(明治四年:1871年)8月28日に太政官から出された「解放令」を津山県庁から管内へ伝えたのも9月18日であった。この布告は平民としての呼称の統一と、身分職業の平等を定めたものであるが、なんら具体的な生活上の保障をともなうものではなかった。

10月に津山県に隣接する生野県の平福出張所(兵庫県佐用郡佐用町)へその管内の勝北郡と吉野郡の58か村の百姓代・年寄・庄屋の署名と印のある歎願書が出された。

太政官の布告については「乍恐小前一同承伏行届兼候体」で、朝命のご趣意はあくまで奉戴するが、「積年の旧習迚も変革難行届、万一人気動揺を醸し候様之事件ニ立至リ候ては、実々奉恐入候間、御寛典之思召を以、従前之通被為仰付候様只管奉歎願候」おそれながら津山管内よりの「御願書・御触書の写」を添えて歎願申上げる。(有元家文書)

ということがそのなかに記されている。津山管内よりの願書というものは残っていないが、そ
の願書を受けとった津山藩が、10月2日に出した触書には、

今般の解放令によって「従来平民と格別区別相立居候処ヨリ、交接之間ニ不都合之儀も有之趣、就而は東京表江相伺候義モ有之ニ付、追而及沙汰候迄ハ、先従前之振合ニ準拠し、双方共礼譲相守、柔和ニいたし、粗暴之所行等無之様」厳重に心得えよ。(『布告控』)

とあって、解放令の実施について政府へ問い合わせているから、はっきりとした沙汰をするまではこれまで通りにせよという消極的なものであった。この触書は生野県へ出された願書に添えられたものである。

また同じく10月に、東北条郡の23か村の年寄・庄屋連名で倉敷県庁に出された願書には
(前略)従前之振合を以、互ニ渡世仕候様更ニ御厳命被為降候様、其御筋へ急速被為仰立御裁許御座候迄之間も、異変有之候程不計候間、当分之内御立法を以、人心鎮静仕候様被仰付、偏ニ万姓御救助被成下度重畳奉熟願候(『瀬畑家文書』)とあって、政府へ伺いを出し、それまで当分の間の指示をしてくれるようにと願ったものである。

『津山市史』第5巻

これも全国各地で似たような伺い(願書)が出されていることから、明治新政府が発布した布告への戸惑いと不安、特に従前(江戸時代)との変更(変革)をどのように受けとめればよいかわからず動揺している様子が見える。

教科書では明治新政府の方針や変革の内容は記述していても、人心の動揺や混乱までは記述されていない。あたかも江戸時代の圧政から解放されて民衆が新しい世の中を歓迎しているかのような誤解を与える。
「士族の反乱」もまた一部の下級武士が不平不満からの反乱と受け取れる説明であり、新政反対一揆も「地租改正」などの税負担への不満が要因と受け取ってしまいがちな記述である。だから、生徒は江戸時代を古くて民衆を苦しめた悪い時代というイメージを持ち、明治時代を近代国家樹立に向かった現代に続く良い時代と思ってしまい、明治政府の変革を良い政策と思い込み、それに反対する士族や民衆は前近代的な後れた考えの人々と思い込む。一面的な進歩史観が作り出す共同幻想である。これでは新政反対一揆の一形態である「解放令反対一揆」は理解できないだろう。

なぜ百姓は「従前通り」を要求したのか。単純に未知なることへの不安から「積年の旧習」を「変革」することを恐れたのか。それだけでは「小前一同承伏行届兼候」とはならないだろうし、「人気動揺を醸し候様之事件ニ立至リ」まで心配することもないだろう。この願書からは、百姓たちの動揺と不満が相当に激しいことは想像できる。

これに対して、翌明治5年4月から北条県権参事小野立誠(もと越前大野藩士)が元大庄屋である土居通政を随員として、東南条・勝北・東北条・西北条・西々条諸郡の村々を回り、里正(村長、元の庄屋)を集めて政府の方針を説いている。

かねて出された命令は堅く守ることは勿論であるが、人情にもとって行われにくく、「下方難渋」に及ぶことがあれば、その筋について用捨に及ぶから申し出よ。ただし「解放令」については「平民合一之御趣意相守、断然旧習ヲ去リ可申之処、積年之習風一時改リ兼、異論沸騰ヲ生し候義有之哉ニ相聞、無謂事候。付テハ双方互ニ勘弁加へ、礼譲尽し、不敬粗暴之挙動無之様、急度申諭し、不得止儀ハ早々可申出事」(『瀬畑家文書』)
とある。

これは政府の見解を示したものである。特に「解放令」に関しては、各村より出された当分の間は「従前通り」という願書は、「積年の風習が急に改まらずに異論が盛んなのは理由がないことである」と否定している。そして、政府の趣旨を理解して、互いに「礼譲」を尽くすよう村民に諭すことを里正に命じている。

この不徹底な対応が後の明治6年の騒動を引き起こしたと考えられる。あらためて「解放令」布達と民衆(百姓)の動揺や不平不満について考察してみたいと考えている。


『津山市史』第5巻には、「解放令」布達に関する記述だけでなく、この前後に出された政府の布告(たとえば戸籍法の改正と寺請制度による宗門人別帳の廃止など)に関連した「流言」が多くあり、人民が混乱したことも書かれている。

日本の歴史を授業で教える際、少なくとも「関連する事項」に関しては県史や市町村史を参照すべきであると思う。もちろん、執筆・発行の年次を考えれば、新しい史料の発見や歴史観の変化、新しい解釈などから、まちがった記述や不足も多々散見するが、それでも基本的な流れ、全国との関連については押さえておくべきと考える。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。