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光田健輔論(31) 善意と悪意(1)

善意も悪意も「主観的な心情」である。いくら自分では「善意」での行為であっても、他者にとっては「悪意」としか思えない行為もある。しかし、ハンセン病史に主体的に関わっている人々、特に絶対隔離主義者は自らの言動および共に関わる人間の言動を「善意」としか自覚していない。
光田健輔がそうであり、光田に対する林文雄や三上千代、神谷美恵子らがそうである。彼らは自らが為したことを「善意」、つまり患者を救うため、国家を救うための最善の方法であったと信じて疑わない。救えなかった後悔はあっても、自己批判などはありえない。

…とまれ、「祖国浄化の完成する日の夕映え」を想い描きながら、小川はひたすら光田健輔の命じるままに患者を隔離収容してまわった。それが患者にとっての唯一の幸福と信じきって、何の疑問も持たずに積極的に参加していったのである。

宗教的情感の高揚、患者との情緒的交流、「祖国浄化」の使命への自己陶酔、銃後の女の模範ともいうべき殉教精神、近代的自我の欠落、かつて『小島の春』の批評者が挙って小川を評価・賛美したこれらの諸要素は、いずれも「救癩」のあり方を根本的に問い直す視点にはつながらないものばかりである。ひたすらヒューマニズムを前面に押しだして、軍国主義下の苛酷な人権抑圧を隠蔽し、隔離の正当性の国民的合意をとりつけ、皇軍勇士に比肩しうる銃後を守る女の模範を示す、そのゆな本として『小島の春』は一大ブームを引き起こしたのである。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

荒井は林文雄や小川正子など「良心的な多くのキリスト者」は、「患者」から「救癩」そのものに視点が映っていっていると言う。この「良心的」は私が問題視する「善意」の自己陶酔であり自己欺瞞である。
荒井氏も引用しているが、『癩に捧げた八十年』(青柳緑)に歌会でのできごとが書かれている。外島保養院からきた坂本芳松という青年が小川正子に対して「夫と妻が親とその子が生き別る悲しき病世に無からしめ-小川先生は我々の仲間を歌の小道具に使って、自己満足しておられるだけです。悲しき病世に無からしめ…ですって?もうそういうおためごかしの救ライ根性はやめて頂きたい」と言ったという。著者の青柳は小川正子や光田健輔を庇って「ライ者は周期的に、まるで体内の毒気を噴き出すかのように、心の荒れ狂うものである。この毒気をふきかけられるときが、ライの医者の試練の一つでもある」と書いているが、やはり坂本芳松の本心は彼らにはわかっていない。ただ、「反抗的な態度」としか理解できないのだ。それこそが坂本が「しょせん病人と医者でしょう」と投げかけた言葉を受けとめきれない光田らの「救う側」の論理なのだ。
坂本が鋭く指摘している光田や小川の根底にある感情を、武田氏は次のように端的に言い表している。

病者は「やはり自分とはちがう」と差別的に考える。そんな意識が深層に巣くっている以上善意と寛容をもって相手と接し、それが破綻したところに相手を人間あつかいしないひどい隔離が発生することは避けがたい。そのようなものとして近代日本共同体の「質」はありえるのだ。

武田徹『「隔離」という病い』

どれほど光田や小川が「善意と寛容」をもって患者に接していても、患者が意に反する態度や言動をとった場合、患者は「不逞患者」「不穏分子」として認識される。光田健輔の<パターナリズム>である。「救癩する者」によって「救癩される者」が規定されるのである。そこには、「救癩される者」の主体性も自由もない。それは、極端に言えば、隔離された世界で<飼育>されるだけである。


ここで、あらためて光田の唱えた「大家族主義」について、武田氏の考察を参考に検討しておきたい。

光田健輔は、1919年内務省保健衛生調査会において「…患者はあちこちで苦しめられるよりも、一つの楽天地に入ることを希望している」と<孤島隔離>を提言し、公立療養所所長の多くが支持を表明した。この発言の段階で、光田らは「救癩する者」であり、患者は「救癩される者」である。彼らは「楽天地」を与えることで「救癩」するとしか考えず、それが患者を「排除・排斥」することになるとは考えてもいない。

光田の<大家族主義>の理念を、開園当時の職員(事務官)であった四谷善行が次のように述べている。藤野豊『「いのち」の近代史』より引用・転載する。

愛生園は先ず家族主義を標榜する。即ち職員と患者を以て家族の構成員と見做し、園長を推して家長と仰ぐ。…愛生園では、職員対患者間、各患者間、各職員間の融和を、最も重要視する。…即ち職員も、患者も、それは斉しく、愛生園の家族の一員であるから、そこには、必然的に「治者」と「被治者」なる観念を生まない。お互ひが親であり、子であり、兄弟であり、姉妹であるから、園内の平和は「愛」に従って保障せられ、従って法の威力を用ゆるの要を認めない。だから、愛生園では職員は患者に対して、決して取締主義を採らない。兄姉の情を以て、弟妹を教導啓発することに専念する。但し民法には親権を行ふ父母に、その子に対する懲戒権を認めてゐる。…愛生園にも、患者に対する懲戒検束の規定がある。併しこの規定は、取締主義から生まれたものではなくして、前記民法の規定と同じ精神である家族主義の愛に外ならぬ。一方患者は職員を目して親とし、兄姉として敬愛し信頼する。家族の一員として、不法なる要求もしなければ、同様家族の一員たる職員を困らせやうとはしない。斯くて、職員と患者との間は、互ひの愛に立脚する同情と謙譲とが交錯し、渾然とし融和の境を築き上げるのである。だから、愛生園には、職員と患者との対立的観念が微塵もない。

四谷善行「愛生園の家族主義」長島愛生園慰安会編『長島開拓』

愛生園の名称は当時の内務大臣安達謙蔵が命名したという。愛に生きる園という「楽天地」に相応しい名前だが、藤野氏はこの名称には政策的な狙いがあるという。

…より明確に言えば、国家のイデオロギーが示されている。すなわち、「愛に生きる」あるいは「愛に生かされる」というイメージをまき散らし、「民族浄化」のために患者個人の犠牲は当然とする光田イズムで凝り固められたこの療養所を、「愛」の殿堂に仕立て上げたのである。そして、その「愛」には貞明皇后の「慈愛」も巧みに盛り込まれていたのである。自宅療養する患者もすべて隔離するという絶対的隔離政策のもと、患者は親子・夫婦・兄弟の愛を引き裂かれて療養所に送りこまれていく。その療養所を「愛」の殿堂として宣伝する。国家は患者の純粋な愛を破壊し、代わりに感情をともなわない「愛」を強制したのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

武田氏は、愛生園の「家族主義」の欺瞞について、次のように明らかにする。

だが、常識的に「家族」と呼ばれる共同体と、そこが少なくとも一点において完全に異質だったことに関しては、もはやいいのがれの余地がない。その一点とはすでに触れたがハンセン病療養所が再生産の場所ではなかったこと、つまり断種措置によって、あらかじめ子孫を残す可能性が断ち切られていたことだ。彼らは再生産を行う実質的な家族ではなかった。

武田徹『「隔離」という病い』

強制的に疑似家族の一員に入れ込まれ、表面的・形式的な「愛」を強要され、一方的・独善的な「家長」に服従させられる療養生活を「家族主義」と呼ぶことが欺瞞でしかない。この「家族主義」の原型(モデル)を、藤野氏は「天皇制国家の支配の論理であった家族国家観」であるという。

国家を家族に擬し、天皇を家長に、国民を「赤子」になぞらえる。地主も小作人もともに兄弟であり、資本家も労働者もともに兄弟であるとして、擬制的家族関係のなかに階級対立も解消させられてしまう。この論理が園長光田健輔を家長と仰ぐことにより、愛生園にも持ちこまれたのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

武田氏は、「八紘一宇」に基づく「拡張された家族観としての皇民家族主義」であるという。

日本が大陸進出を正当化する理念が「八紘一宇」だった。このような国家政策レベルにまで拡張された建前として「家族」はかぎりなく抽象化されており、当然、家族=実質的な再生産の場所という定義からすでに大きく離れている。そして建前と実態にもまた大きな乖離がありえた。皇民家族主義の旗印の下にひれ伏さない人々に対しては満州国で、中国で、東南アジアで、数かぎりない残虐な措置が与えられた。

武田徹『「隔離」という病い』

「八紘一宇」は愛生園では「愛」に置き換えられ、この「愛」という言葉ゆえにキリスト者も安易に賛同してしまったのではないだろうか。だが、「愛」もまた「八紘一宇」と同様に、抽象的で曖昧な定義ゆえに、どのようにでも解釈され、どのようにでも活用された。監房があるのは「愛の鞭」であり、苛酷な園内労働も「愛はきびしいものだ」と説明できるのではないかと武田氏はいう。

ハンセン病療養所では、「刑法」にもとづかず、「癩予防法」により、所長に患者に対する懲戒権が与えられていた。それは減食や30日以内の監禁をともなうもので、およそ病者を治療する施設にはあり得ない規定であった。愛生園でも園長光田の方針に反対する患者は、懲戒の対象とされ、この懲戒権を持つがゆえに、光田は愛生園において独裁者たりえたのである。患者の生命と人生をもてあそぶがごとき懲戒権も、「家族主義の愛」の一環として正当化されてしまう。
愛生園は開園当初から定員オーバーの状況が続き、患者の医療・生活条件は悪化していく。そうしたことへの不満が爆発しないように、この懲戒権は有効に機能した。そして、園外には「愛」「家族主義」などの美辞麗句が宣伝されていった。患者の郵便物は検閲されていたため、患者は「愛」や「家族主義」の実態を園外に伝えることは困難であった。世論は、光田を「愛」の医師に祭り上げ、隔離政策こそが患者本人をも救うことだと決めつけていったのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

「善意の思い込み」ほど人を惑わせるものはない。「愛」を欺瞞や隠蔽の隠れ蓑に利用すれば、容易に人は欺されてしまう。光田自身も自らの提唱した「絶対隔離政策」や「断種」を「善意」と思い込み、愛生園を「愛の殿堂」「楽天地」であると信じ込んでいたのではないだろうか。それゆえ、長島事件を報じた新聞に「愛の殿堂に汚点」(『大阪毎日新聞』岡山版)と書かれても、なお家族主義の正しさを主張し続け、事件を「少数の不逞の徒」の仕業と決めつけ、「平素から自由を認め、弾圧などしていない」と開き直っている。
「善意」からの「救癩」活動であると光田ら絶対隔離主義者が「思い込んでいる」からこそ、東京帝国大学教授太田正雄でさえも「なぜ其病人はほかの病気をわづらふ人のやうに、自分の家で、親、兄弟、妻子の看護を受けて病を養うことが出来ないのであらうか。強力な権威がそれを不可能だと判断するからである」と言わざるを得なかったのだ。

確かに、光田健輔や林文雄、小川正子、神谷美恵子など光田の後継者たちは、それぞれが「善意」の「救癩」活動を行っていた。患者の中には、彼らの親身な対応や温情ある接し方によって「救われた」と心から感謝している者も多い。光田にしても「慈父」の一面はあった。それでも、私は彼らを批判する。なぜなら、彼らのような「善意の思い込み」によって暴走する人間を未来に登場させたくないからである。

隔離政策が虐げられた患者を救い出した、という説明に関して牧野は「そもそも光田一派が病気の恐怖を宣伝したから、隔離しなければならないほど患者が社会の中で差別された。初めからボタンの掛けちがいがあったのであり、光田派批判されなければならない」と明言。光田の業績の中に評価すべき点を見つけてその免罪を図ろうとする動きに対しては「ヒットラーの政策の中に良いことがあったからといって、ナチが正当化されるか」と厳しく批判する。

武田徹『「隔離」という病い』

穏和な人柄と鋭い考察で尊敬する邑久光明園名誉園長牧野正直氏の指摘は的確である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。