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古書

久方ぶりに古書店を巡って、数冊の本を買った。

『伝説 よもやま話 岡山奇聞』(岡長平)
この本は、発行が昭和36年1月である。正確な史実かどうかは別として江戸時代の説話としては興味深い。

『江戸空間』(石川英輔)
江戸時代と現代を対比させながら、庶民の生活から江戸時代を多角的に考察していて、おもしろい。

『大江戸生活体験事情』(石川英輔・田中優子)
これは著者二人が実際に江戸時代の生活を体験し、実体験から考察していて、これも江戸時代の庶民生活を知るという点から興味深い。
それよりも、本に挟まれていた新聞の切り抜きに心引かれた。それは読売新聞に書評欄を切り抜いたもので、この本の書評である。評者は作家の川上弘美氏で、なかなか的確な内容紹介である。一部抜粋してみる。

本書は、文献からでは判らぬ江戸の生活のいくつかのことごとを実際に体験してみるという趣旨で書かれてある。火打ち石で火をつける。行灯のもとで夜を過ごす。太陽に従った時刻で生活する。着物を着て過ごす。…行灯のもとで見る浮世絵の艶めかしさ。ゆったりと着た着物のすがしさ。下駄が足を開放する実感。たしかに手間はかかる。熟練も必要だ。しかしそこにあるのはじつに豊穣な世界なのである。「早い・新しい・効率よい」に価値を置いた現代とは異なるが、じつにじつに精緻で陰影に富んだ世界。
「雨に濡れた石にはりついた落ち葉を『汚い』と見る文化と、それを『美しい』と見る文化がある。排泄物を汚いと思う文化と、貴重だと思う文化がある。欠けた瓦をごみと見る文化と、部屋に飾る文化とがある」と田中氏は書く。
江戸時代の豊穣さはすべて後者、万物の中に美を見いだしいつくしむという価値観から起こってきたものなのであろう。

購入者は、この一文を読んで購入されたのだろうか

古書の間に挟まっているものや書き込みなどを読むと、どんな人が買われたのだろうと想像するときがある。これもまた楽しい。
学生が卒論かレポートのために購入したものだろうか、あるいは研究者だろうか、それとも市井の読者だろうか、しっかりと読み込み、細かい字で意見や疑問、感想などを書き込んであるのを見つけると、ついうれしくなってしまう。
私はマーカーも使うが、色鉛筆などを愛用している。蛍光色の強いものや濃い色は本文が読みにくい。サイドラインやアンダーラインを引いたりチェックマークには色鉛筆が重宝する。書き込みはほとんどしないで、ノートを使うかポストイットなどの附箋型メモを使う。もしくはPCに打ち込む。内容重視ではあるが、やはり本は丁寧に扱いたいと思っている。

『津山松平藩町奉行日記十四』(津山郷土博物館)
これは、紀要の第二十号で、寛政七年(1795)と八年の日記が収録されている。公務日誌であるから日々の仕事内容、特に「取計」や決済に関する記述が多い。簡略に記してあるが、牢番や捕り方に関する記述もあって、史料として利用できる。シリーズで出版されているが、大部であるので、後々必要によって揃えようと思う。

買うだけ買って溜まった本が相当量になり、何から手をつけたらと思ってしまう。毎年のように本の「断捨離」を行って随分と整理したが、それでもなお本の膨大さに唖然としているのが正直なところだ。しかし、本の冊数を自慢するような愚かさは持ち合わせていない。3千冊とも四千冊とも…蔵書数を自慢している人間がいるが、冊数が知識量を表すものでもないし、まして思索の深さや人格の向上を示すものでもない。自己満足で収集するのであればそれもよいだろうが、収集した本を羅列して“学識”と勘違いして公然と自慢するのは愚かな行為でしかない。


向坂逸郎氏の「書庫」について思い出したついでに,どの本でそれを見たのかが気になり始め,県立図書館で探したところ『私の書斎』に載っていた。この本はシリーズになっていて,4冊が在庫してあった。錚々たる顔ぶれの学者や作家の書斎がreportageされていて,暇つぶしのつもりで借りてきて読んでいたが,なかなかに含蓄のある書斎論や研究論,人生論が語られていて,つい引き込まれてしまった。

私が最初に書斎らしき部屋を手に入れたのは高校時代だ。父親が新築した家の二階に二間続きの洋室をもらい,壁いっぱいの大きな本棚と大きな木製の机を買った。その頃であったか,もしくは大学生の頃であったか定かではないが,この『私の書斎』にも登場している渡部昇一氏の『知的生活の方法』を読んで大いに感化され,自分なりの書斎をつくろうとあれこれ試みたことを覚えている。渡部氏の歴史認識や理論には異論もあるが,彼の「知的生活」や「書斎論」「研究姿勢」には随分と影響を受けた。

二十数年前,父親が建てた家を壊して現在の家を建てたが,そのときにも渡部氏など学者や作家の書斎を紹介している記事や本を参考にしながら書斎と書庫を建てた。ただし,『私の書斎』が出版された当時(昭和50~60年代)と現在で大きく異なるのは,インターネットやPCが書斎の中心であるという点だろう。だが,やはり本や資料は必要だし,快適な読書や思索の空間は重要である。

今回,あらためてこのシリーズを読んで,書斎や書庫の魅力を味わうことができた。そして,学者もそうだが作家の資料収集量には圧倒された。資金力の違いは当然だが,それにしても生半可ではない。司馬遼太郎氏が,昭和30年代,『龍馬が行く』を執筆するに際して,神田の古書店に銀行で借りた2000万円を渡して,龍馬に関するあらゆる本を集めてほしいと依頼したという逸話など,その一部に過ぎない。

また,学者の専門性についても垣間見た気がする。学者のほとんどが大学や研究所に籍を置いていて,大学の公費で書籍や資料を購入でき,図書館や研究室内に多くの本があるわけで,それらを自由に閲覧はできる。だが,彼らの自宅の書庫や書斎がこのように紹介されているのを見ると,なにも大学という環境があるから学問ができるのではなく,各人の努力によって学問が為されていると痛感する。学問は肩書きが語るものではないし,肩書きでしか学問を語れないのでもない。学問とは各個人の思索である。自分が好きでその学問を追究しているだけである。他人にとやかく言われてするものではない。まして人に自慢したり強制したりするものでもない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。