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「渋染一揆」再考(16):倹約令(4)

岡山の郷土料理に「祭り寿司」があり、「岡山ばらずし」「備前ばら寿司」とも呼ばれている。お祭りや祝い事、来客の接待などに作られる料理で、野菜や魚介、瀬戸内海の豊かな食材を詰め込んだ、華やかな「ちらしずし」である。

江戸時代、備前岡山藩主であった池田光政が、ぜいたくをしないように「庶民の食膳は一汁一菜にせよ」との「倹約令」を出した。そこで庶民は、「ご飯の上に乗せても一菜は一菜」と、魚や野菜をすしの具に使えば飯を食べる時のお菜ではなくなるという理屈で、たらい状の半切り桶の中に詰めたすし飯に、味をつけた野菜や魚介類を十種余りも入れて、かき混ぜて食べたのが始まりと言われている。

「一汁一菜」の面目を保った「ばらずし」であるが、あまりに具沢山で豪華なために当時は目立たない様に作り方を工夫したとも言われている。具沢山の魚介類や野菜を寿司桶に敷き詰め、その上に干瓢や椎茸が入った寿司飯をのせて見えないようにし、食べる直前にひっくり返せば豪華な「ばらずし」がお目見えする。これも庶民の知恵である。

さて、この名物料理から単純に<庶民の知恵>と結論づける前に考えてみるべきは、「隠す工夫」以前に豪華な海や山の幸を手に入れることができた庶民の経済力(生活力)である。従来の貧農史観が描くように、米は年貢に収奪されて稗や粟しか食せない百姓であったなら、このような工夫すら必要なかったであろう。

『備前藩 百姓の生活』(荒木祐臣)に次の記述がある。

百姓の飲食についても、又、きびしい制限が加えられ、許された平素の副食は一汁一菜に限られていた。それでも主食には米が食べられたかと言うとそうではなく、折角汗水たらして作った米も、上米はほとんど年貢として取り上げられ、余った上米は生活費を得るため換金してしまうので百姓たちが平素食べていたのは小米やしいなで、それに粟・稗・そばなどの雑穀をしっかり混ぜ込んだ粟飯・稗飯・そば飯などであった。
それでは、お正月、村祭り、嫁取り、婿取り、葬式などの特別の日には少しは御馳走でも食べられたかというと、これにも藩当局は厳しい制限を加えていた。天明七年(1787)のお触れをみると、
村方祭礼、嫁取り、凶事などの節、親類ども出会い候節、随分質素実義に申し談じ、飲食等の儀も分限に拘らず(貧富によらず)成る可く手軽き支度等取り計い申す可く候(『法例集』)
となっており、このような特別の日でも料理は一汁二菜、酒は三回だけ飲みかわすのは許すが特別なお膳料理などは厳禁されていた。

本書は昭和56年(1981)発行であり、今から40数年前である。当時はまだ、江戸時代は庶民にとって暗黒の時代、幕府や藩など支配階級による厳しい圧政と弾圧、収奪の身分制社会というイメージが強かった。荒木氏においても、参考文献として岡山備前の主な史料を挙げられていることから原典史料を元に描いていることは推測できるが、歴史観自体は古い認識である。

※ 上記の荒木氏の著書中に引用先として『法例集』とあるが、これは岡山藩の藩法を集録したもので『藩法集 岡山藩』に蒐集されている。

同じ史料を読解するにしても、その前提となる歴史観あるいは歴史認識が異なっていれば、導き出される歴史像も様相が違ってくる。幕府や藩側の史料、特に倹約令などの法令や願書、諸記録から推察する場合、それを<鵜呑み>にしてよいものか疑問を感じている。
特に「倹約令(御触書)」は実態に対する命令であり、同様の内容が繰り返しだされていることからも、守られていないことの証左である。倹約令の内容だけから庶民や百姓が厳しく統制された極貧の生活を余儀なくされていたと結論づけて歴史像を描いているように思える。そこには先入観がありはしないだろうか。

荒木氏は上記に続けて、次のように書いている。

宝永二年(1705)に備前藩が発行した「村々売物御定札」に書かれている村内で販売を許可された商品目をみると魚類については、あみ・いわし・あらめ・ほしか(乾鰯)の四種が書かれているに過ぎないので、百姓たちが食べられたのはこのような下級魚四種に限られたと見なければなるまい。なお、最後のほしかは当時、北前船により下津井港に持ち込まれ、その大部分は農村の金肥とされたが、百姓はこの臭いほしかを食糧にもしていたのである。

同様の記述が『岡山県史 近世Ⅲ』にもある。

1657年(明暦三)、岡山藩主池田光政は郡奉行を召出して、「百姓というものは米を食わぬ者で、糠やほしかなどを食物にする者と思っているのではないか。百姓も人間であり、米を食べる筈であるが、米を食べぬように命じているため、食べないのだ」と、物事の根本をよく考えて政治を行うよう申し聞かせているが、糠やほしかさえも食べざるをえない農民も少なくなかったのである。

池田光政の仁政を表した逸話の一つとされるが、単に藩主や上級武士が百姓の生活をそれほどには知らかったのではないかと私は思う。質素倹約を命じていても実際に武士が取り締まりに巡回するわけでもなく、大庄屋から判頭を通じて命令が伝えられ、村内で心がける程度ではなかったかと思っている。


次に「渋染一揆」にも関わる<衣服統制>について百姓への制限をみておく。
岡山(備前)藩が百姓に対する「衣服統制令」を最初に発布したのは、寛文八年(1668)である。

一百姓之衣類、十村肝煎・庄屋之妻子共可爲紬布木綿、脇百姓は布木綿計可着之、但、其外とても人により奉行吟味之上可免之、附、ゑり袖口上帶下帶とも絹布之類可爲停止事
一着類染色、男女共に紅紫は不及沙汰、御法之通色ニもかたなしに染可着之、但上下ハかた付不苦、附、紋所ハ十村肝煎其外にても人ニ寄、奉行吟味之上可免之、持掛り之分當年中は可免許事

(『藩法集1岡山藩上』975)

肝煎(大庄屋)や庄屋は妻子共に「紬布木綿」、脇百姓(平百姓)は「布木綿」を着ること、その外は奉行(役人)の調査の上で許可する。えりや袖口、上帯下帯ともに絹類は禁止とする。着物の染色は「紅・紫」は絶対禁止であり、許可された規定の色で紋を付けずに染めて着ること、裃は紋を付けてもよい。紋所は奉行(役人)の調査によって許可する。持っているものは当年中は許す。

「紬」とは、紬糸で織られた絹織物のことで、蚕の繭から糸を繰り出し、撚りをかけて丈夫な糸に仕上げて織ったものである。絹糸は繭の繊維を引き出して作られるが、生糸を引き出せない品質のくず繭をつぶして真綿にし、真綿より糸を紡ぎだしたものが紬糸である。くず繭には、玉繭、穴あき繭、汚染繭が含まれ、玉繭とは2頭以上の蚕が一つの繭を作ったものである。紬糸は手で撚りをかけるため太さが均一ではなく、玉繭から作られる糸は2本の糸が複雑に絡まっており、節の多い糸になり、これを玉糸や節糸ともいう。紬糸には綿を解いて紡いだ、いわゆる木綿糸もある。これらの糸を平織りした布が紬の生地である。
本繭から作る絹糸を用いた布の表面が絹独特の光沢を帯びるのに対し、紬は鈍い光沢を放ち表面に小さなこぶが生じ、独特の風合いを持ち、耐久性に非常に優れ、古くから日常の衣料や野良着として用いられた。

『藩法集』には、百姓だけでなく、家臣と妻子、徒や足軽、町人にいたるまで実に細かく規定(制限)した衣類統制令が年ごとに集録されている。また、和気郡の大庄屋に所蔵されている古文書を編纂した『万波家文書』には、触書の控や誓約書、願書などが集録されている。

倹約規定書
衣類之義従先年切々被仰遣候通、村々心ヲ付堅相守候様ニ可仕候。町方承合可申旨此度被為仰渡候。則右ニ准左之通相守可申候。
一、大庄屋ヲ始其外身ヲ持者共迄前々之通衣類木綿ヲ可着、帯ハ絹日野紬迄可仕事。右之者其妻女下人下女召連れ様成者上着右同断。但ししゞら等ニ而も無用。帯ハ日野紬絹たるべし。帷子は紺屋染可着。
一、下女召連不申者惣而木綿帷子地布可着之。
一、医者共座頭瞽女 右同断
一、末々御百姓男女並召仕者男女共上着、袖口、襟帯一切絹類堅無用、惣而木綿たるべし帷子者地布可着候。
右之通大庄屋を初末々迄相守可申候。勝手兎も角と仕候。別而女者見迷似致度と存候義人情ニ候へ者得と申聞せ衣類之義ハ不及申櫛かふがい等ニ至迄粧い飾り申義夢不仕、尤男子も相嗜可申候。衣類之義者右ニ准着可仕候。紺屋染色等物好不致随而下直を第一ニ可仕候。何事ニよらず可成程諸事御倹約を相守可申候。若相背候於有之者急度相改可申候。
右御趣意之通村々急度相守可申候以上。
   大庄屋藤野村
        七郎右エ門
右御書付之通逐一承知仕候。銘々妻子等迄得と申聞御趣意相守候様ニ可仕候。為後日判形仕指上申候以上
   寛延二年巳二月    益原村惣百姓中
右通念入相守候様ニ常々可申付候以上。
              同村五人組頭
                  助四郎
                  源太郎
              同村名主
                                                                  五郎左エ門
大庄屋藤野村
  七郎右エ門 殿

『万波家文書』

寛延二年に岡山藩より出された「衣類統制令」が和気郡奉行から大庄屋の藤野村七郎右衛門に伝えられ、彼が管下の村々の名主・庄屋にその由を伝えたところ、益原村の名主・五人組頭より誓約書が提出されたのである。
しかし、果たして百姓はこれらの「倹約令」(衣類統制令)を守っていたのであろうか。

手元にある岡山藩の法令を集めた『藩法集』『市政提要』『撮要集』『万波家文書』などを読み返しながら、改めて思うのは、江戸時代260年間で布告された法令の少なさである。これらは一部でしかないのかもしれないが、それにしても少ない。『備前藩 百姓の生活』(荒木祐臣)には百姓に対して命じられた「倹約令」(衣服統制令)として、寛文八年(1668)から文政元年(1818)までの9回が列挙されている。これに「渋染一揆」に関係する天保十三年(1842)と安政二年(1855)を合わせても11回である。他にも出されていると考えても少ない。(『藩法集』には家中の武士、足軽、町人など個別に出された衣服統制令もある)
これを百姓(武士や町人も)が厳守していた証左とは考えにくい。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。