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「渋染一揆」再考(15):倹約令(3)

「渋染一揆」に関する単書としては『渋染一揆論』(柴田一)、『概説・渋染一揆』(大森久雄)の2冊であるが、「渋染一揆」についての論考を収録した書籍は『神と大地のはざまで』(ひろたまさき)など何冊かある。『岡山県史』『邑久町史』など自治体が編纂した地方史の概説、研究紀要などに掲載された論文も多い。その他、論考の中で触れているものは相当数ある。史料としては『藩法集』や『備前備中美作 百姓一揆史料 第2巻』、『(日本近代思想体系22)差別の諸相』などがあるが、『岡山部落解放研究所紀要第6号』にはほとんどすべての「渋染一揆」関係資料が集録されている。

「渋染一揆」に関する論考において、私が最も参考となると考えるのは、『岡山部落解放研究所紀要第7号』に掲載されている若林義夫氏の論文「渋染一揆 -倹約令・歎願書- について」である。もちろん、他の研究者においても史料の分析・独自の考察など示唆に富んだ論考もあり、参考になる。若林氏の論考を視点として私見を述べていきたい。


その前に、『岡山県史 近世Ⅲ』より岡山藩における「倹約令」をまとめておく。

農民に対する倹約令は繰返し布達されたが、1668年(寛文8)の倹約令が早期の布達のようである。この布達は、十肝煎・庄屋の妻子は紬・布・木綿、脇百姓(小前百姓)は布・木綿に限り、襟・袖口・上帯・下帯といえども絹布の使用を禁じた。また、衣類の色柄についても、紅・紫の禁色の使用はもちろん、その他の色も柄染めの衣類の着用を禁じ、紋所の使用も許可を得た者にのみ限定した(『藩法集1岡山藩』)。この禁制も1718年(享保3)のころは弛緩したらしく、「近年ハ衣類其外惣躰之義共、世上ニつれ次第に分過に罷成」ったとし、百姓は身分の上下を問わずすべて木綿・羽織袴もまた同様と定め、また名主・五人組頭が公用で岡山城下へ出るときも、普通の用事ならば袴の着用は無用とした(同前書)

<禁令>が出されるということ、つまり「禁止」や「制限」が命じられるということは、そのような実態があったからである。また、度々発令されているということは、守られていない実情があったからである。
「倹約令」とは<質素・倹約>を生活の基本とし出費を抑えることを旨とする。その反対は<贅沢・浪費>である。「衣服統制」において、常に命じられるのが<絹類の禁止>である。

江戸庶民の被服の代表的な材料である「河内木綿」について『守貞謾稿』に次のように書かれている。

いまの世(嘉永)、河内は木綿の産地として第一である。京阪の綿服には河内木綿を専用としている。しかし撚り糸細からず、染色も美しくないので、江戸ではあまり用いられない。
江戸では結城縞を第一としている。故に諸所で結城縞の模造を織った。
京阪でも河内木綿は最下の者の衣服に作り、仕着と名づけて主人から丁稚などに支給するものとした。
江戸では仕着は松阪縞を用いた。しかし松阪縞は美しいが、長持ちしない。河内縞の方が長持ちする。
値段についても、河内縞でも一反銀三十匁のものがあり、本結城と同じく甚だ美しい。
嘉永の頃に銀三十匁のものも、二十年前(文政末年)にはまだ銀二十四、五匁であった。
今(嘉永)では極上品は銀四十匁もする。結城縞の極上品四、五十匁と比較してみるがいい。
結城には蚕糸織もあり、結城紬といい、値段は銀七、八十匁乃至百匁という。

江戸時代中期は、銀1匁=約1250円(金1両は銀60匁)であった。現代との貨幣価値の換算はむずかしいが、木綿でも結構な値段がすることがわかるだろう。貨幣経済が農村にまで浸透し、振売り(棒手振)などの商人が農村に出入りしていることからも、百姓が米や野菜、商品作物を売って現金収入を得て、さまざまな品を購入していたのが実情である。「貧農史観」が描くような過酷な年貢の収奪によって極貧の生活であったとは考えられない。


上記の『岡山県史 近世Ⅲ』の続きを転載しておく。

凶作が相ついだ天明年間(1781~1788年)以後は倹約令が頻発され、1783年(天明3)には、嫁取り、聟取りの祝儀や、死者葬送・仏事の規模について、「重キ礼式」とはいえ分不相応に営むことを禁じ、村役人の差図をうけて営み、自分の了簡でとりはからうことを禁止した。特に葬儀のとき、世話人や会葬者に酒を振舞うことは、哀悼の意を表すべき葬儀の趣旨に反するとしてこれを禁じた。また村方祭礼のとき、親類縁者を招待するのは格別、他の客を呼ぶことは一切やめ、馳走も手軽く過分の料理は厳に慎むよう命じた。1787年には、「別て御城下近キ村々ハ、男女共岡山町方之風俗を見真似」、服装も華美に流れ、銀やたいまいの櫛・笄で頭髪を飾る女性のあることを指摘し、その取締りに当たらせた。

これも逆に見れば、名主や大庄屋、地主だけでなく平百姓においても、そのような実態があったと考えられる。
では、「倹約令」の目的は何か。『岡山県史 近世Ⅲ』に上記に続けて、次の一文がある。

このように藩が倹約を強制したのは、「驕超過致し候得は、おのつから家業に怠り候事必然之道理」と考えたからである。そのため倹約令の布達は凶作飢饉の年に限らず、気持の弛みやすい豊作の年にも布達された。1818年(文政元)は、「作方何之申分も無之、是迄之詮も無之」と判断し、特に祭礼の時期を迎え、それを当て込み城下や上方の呉服屋が村々に入り込んでいることを指摘し、彼らを村内に入れないよう大庄屋・村役人たちに指示し、もし心得違いの者があれば厳科に処すことを申し渡している。

「倹約令」の目的は、質素倹約に努め、贅沢や浪費を慎むことで<支出>を抑えることである。従来の貧農史観では、百姓の生活を厳しく統制し、最低限の極貧生活をさせることで、少しでも年貢を増徴・収奪する(俗に言う「稗や粟を食し、米を納めさせる」)ための「倹約令」であったと解釈されてきたが、私は「倹約令」に「年貢増徴」が含まれた御触書を見たことがない。年貢を搾り取るというよりも、支出を抑えて生活を安定させ、飢饉に備えて(貯財)おくように命じている。藩にとっては年貢増徴よりも年貢減少を危惧しているし、農村の荒廃や自然災害、飢饉により救米や加損米が増えることを心配しているように思える。

岡山藩で城下の「ざるふり商人」が在方行商を禁止されたのは1655年(明暦元)であるが、1666年(寛文6)には13色の品目に限って許可され、1683年には18色、1705年には31色に緩和されている。さらに郡奉行の許可を得て「商札」をもらった者は百姓でも営業が認められた。しかし、商札をなしに営業する者や許可品目外の商品を売るなどの「忍び商い」が横行し、繰り返し取締令が出されている。農村に商品経済が浸透し、経済格差が拡大している証左である。

「倹約令」のもう一つの目的は<身分統制>である。
触書の前文(前書き)によく用いられる文言に「驕」「身分高振舞」「身分不相応」などがある。江戸時代は身分制社会であり、それぞれの身分に応じた「家職」「家格」「役務」があり、生活(暮らし)のあり方があると決められている。それが「身分相応」であり、武士から平人まで厳格に守ることで社会が維持されてきた。

一昔前(今もかもしれないが)まで、「分不相応」とか「分に合っていない」とかの表現で生活や態度を戒められてきたのは、その名残である。「分相応の暮らしをせよ」「分相応の持ち物」などの表現は今も使われている。

身分制社会とは「身分の差異」が基本にあり、それは<見た目>で自他に判断されるものであり、それゆえに<衣食住>が細かく規定される。大名屋敷の造り(門構えなど)も大名の家格によって規制される。
衣服においてはさらに厳密である。華美な衣服を贅沢と禁止するだけでなく、武士と平人、百姓と町人、さらに大庄屋と平百姓との差異(区別)を明確に規定することで、相互に身分を自覚させることが「倹約令」の目的であったと考える。

これも逆に考えれば、そのような身分統制に関する法令を繰り返し布達していることは、守らない実情があったということである。つまり、絹類の衣服への使用、冠婚葬祭や村方行事に際しての贅沢で派手な宴が度々行われていた事実があったということである。庶民は弾圧され抑圧されていたのではなく、したたかに生きていたのである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。