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「重監房」に学ぶ(4) 国家の体面

ハンセン病問題を過去のこと、終わったこと、今は改善されているから等々と安易に片付けてしまうべきではない。なぜ、このような悲惨なことが起こったのかを知るべきであり、将来に向けての教訓として学ぶべきである。表面的な事実(できごと)だけではなく、その歴史的背景と要因を明確化し、それこそを後世に伝えていく必要がある。同じ過ちを繰り返さないためにも、どこに問題があるのか、なぜ残酷な悲劇が起こったのかを知るべきである。

『ふれあい福祉だより』(第20号)に、藤野豊氏の小論「ハンセン病隔離政策90年の歴史」が掲載されている。引用しながらまとめておく。

この法律(「癩予防ニ関スル件」)が帝国議会で成立したのは1907年3月で、第1次西園寺公望内閣のときである。西園寺は伊藤博文から立憲政友会を引継ぎ、内大臣には政友会の総裁の原敬を任じ、原が事実上、内閣を主導した。日露戦争に日本は勝利し、当時、「一等国」「文明国」という意識が世論を覆っていたが、日本経済は日露戦争後恐慌の渦中にあり、西園寺内閣はさらなる軍備拡張を求める軍部と微妙な関係を保ちつつ政権を維持していた。そうしたなか、日本には3万人を超えるハンセン病患者がいることがわかり、早急な対策を打つことが必至とされた。
原は、1906年12月19日、西園寺首相に対し「癩予防ニ関スル法律制定ノ件」という意見書を提出している。原は、その意見書のなかで、ハンセン病は「多クハ触接ニ依リ又ハ病毒ニ汚染セル物件ヲ介シテ其ノ伝播ヲ来タスノ危険アルハ争フ可ラサルノ事実」と延べ、「斯ク多数ノ患者現ニ各府県ニ分散シ或ハ神社仏閣浴場等ノ付近ニ集合シ或ハ定着ノ居所ヲ有セズシテ各地ヲ徘徊シ恣ニ病毒ノ散蔓ヲ助長シツヽアル」現実に対する早急な対策を求めた。…原は、ハンセン病患者が「各地ヲ徘徊」する現状を日露戦争勝利後の日本を訪れた外国人に見られると、「国家ノ体面」を汚すことになると恐れていた。徘徊放浪するハンセン病患者の存在は、「一等国」「文明国」に反するものとみなされたのである。原は、「患者ノ浮浪徘徊ヲ防止シ且ツ消毒其ノ他ノ予防方法ヲ実施セシムル為」に療養所への患者収容、すなわち隔離を急いだ。ここで、隔離の理由として、原が「予防」とともに「浮浪徘徊ノ防止」をあげていた事実は重要である。隔離の目的は、予防と国家の体面を保つための放浪患者の一掃にあったのである。

藤野氏のこの指摘は重要である。ハンセン病患者に対する「隔離政策」は感染予防と「国家の体面」によるものであった。

なぜハンセン病患者が「非文明国」「三等国」の基準となるのか。宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』より引用する。

1873年にハンセンが原因菌を報告してからなおも論争が続いたが、1897年の第一回国際らい学会で、それが承認された。
ベルリンで開かれたこの国際会議には、時代の香りが色濃く漂っていた。帝国主義のせめぎ合いのなかで、ヨーロッパの列強がアジアやアフリカなどを植民地化し、遅れて日本や米国もこの競争に加わった。第一回国際らい学会が開かれた背景には、「文明国」である欧米列強を、多数のハンセン病患者の発生している「非文明国」の脅威からいかに守るべきかという欧米列強の思惑があった。会議に参加したのは、欧米の強国とその植民地の代表者(その多くが、植民地支配をしている国からやってきた医師だった)、そしてヨーロッパの弱小国でありながら、ハンセン病研究の拠点であったノルウェーの医学者たちだった。日本もこの会議に代表を送り込んだが、当時の日本は、アジアにあって植民地化を免れ、逆にそれを「する側」になった唯一の国だった。
その日本で医学を教えていた米国人医師アルバート・S・アシュミードは、植民地からのハンセン病の脅威を強く訴えた。彼は、日本を含めたアジア諸国やノルウェーなどから米国に移民する人々が、この病気を持ち込んでいると考えていた。そのため、フランスのゴールドシュミットらとともに、この会議で「文明国」が一致団結して厳重な予防策をとり、「非文明国」からのハンセン病の流入を防ぐべきだと考えて様々な画策を行った。
植民地を「持てる側」の一員になろうとしてアジア近隣地域への支配を進めながら、背後には植民地に「される側」の象徴ともいえるハンセン病が蔓延している。アジア近隣諸国を基準に考えれば、およそ三万人いたとされる日本のハンセン病患者の数は、目立って多いわけでもなかった。しかし、欧米の「文明国」を基準に考えれば、その数は「国辱」と思えるほど多いものだった。アジアでありながら「文明国」であろうとし、欧米と肩をならべようとしたこの時代の日本には、多数のハンセン病患者を一挙に消し去ろうという風潮が生まれやすい二重基準があった。こうして、次第に軍国主義の風潮が強まっていくなかで、同時代の世界のどこにもない強力な隔離政策が行われていく。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

要するに、アジア・アフリカの植民地にハンセン病患者が多いことから「非文明国」「三等国」の基準が生まれたのであろう。ハンセン病患者が減少していた欧米諸国において、植民地からハンセン病患者やハンセン菌が流入することが脅威であった。こうした欧米諸国の考え(判断基準)が日本におけるハンセン病患者への「強制隔離」政策を決定づけたのである。

藤野豊氏は上記の引用に続けて、次のように述べている。

ハンセン病患者は「一等国」の体面を汚す存在とされ、国の体面を汚す「各地ヲ徘徊」する患者が隔離の対象となった。全国に五か所の療養所がつくられ、患者はそこに隔離された。隔離により患者やその家族は恐ろしい感染症の感染源として差別された。そして、ハンセン病は遺伝病ではないが、免疫の弱い体質の者が発症する感染症であり、その体質は遺伝するのではないかとの理由から、患者への断種や妊娠中絶が強制された。

人々にハンセン病への恐怖心を抱かせた要因は、患者の顔や四肢に表れる変形や機能不全、そして「感染症」であることから<うつる>ということが大きい。ハンセン病を指す俗語に「くずれ」「くされ」などがあることからもわかる。<うつる(感染する)>ということは、自分たちの身体も変形し、機能不全に到るということを意味している。これが「強制隔離」の正当性を保障することになるとともに、人々が彼らに対して「排除」「排斥」を行う根拠と正当性を与えることになったのである。このことが「無らい県運動」の加速的な拡大の背景にもなった。

1931年2月、帝国議会で法律「癩予防ニ関スル件」は改正され、癩予防法となり、隔離の対象はすべての患者に拡大された。…当時、日本経済は昭和恐慌下にあり、現状打破を軍部に期待する世論も形成されていた。民政党は恐慌下の社相不安に対処するため社会政策を重視していたが、そうした社会政策の一環としてもハンセン病患者の隔離強化は位置付けられていく。強い兵士をつくるという軍部の意向に沿う形で優生思想に基づく「民族浄化」という課題がハンセン病隔離政策に加えられ、単に国の体面という理由だけではなく、優秀な国民をつくるという目的からもハンセン病患者の隔離が拡大されたのである。…患者には戦争の役に立たない「非国民」という新たな差別が加えられた。

明治以後、諸外国との国交が開かれ、貿易商人を中心に多くの外国人が訪問するようになり、欧米諸国の<近代国家>としての諸制度や技術力の格差を痛感した政府は、重要課題の<条約改正>の妨げとなっている諸制度の改革と同時に、<体面>上の問題であるスラムや浮浪者、ハンセン病患者、被差別部落などへの対策を急務と考えるようになった。

<体面>への対処は<隠すこと>である。その最も顕著な例が「別府的ケ浜事件」である。

1922(大正11)年3月、的ヶ浜にあった「山窩乞食」の集落(貧民窟)を警察官が焼き払った事件。住民の中にハンセン病患者が4名いた。つまり、「皇族の閑院宮の来訪を直近に控えた別府で、治安対策の一環として警察は的ヶ浜の住民に対して『山窩狩』をおこなったが、そこには4人のハンセン病患者もいたため、消毒の意味で住居を焼き払った」(藤野豊『「いのち」の近代史』より)のである。

ハンセン病患者を救済(治療、差別から守る)する目的、欧米諸国に対する体面(「文明国」「一等国」)を保つという目的、国民の健康を維持(感染を防ぐ)する目的のため、選択された手段(方法・対策)が「絶対隔離政策」であった。
ハンセン病に対する恐怖心を煽るかのように、感染力が事実とは逆に誇張して広められ、治療法がない「不治の病」であり、顔や四肢が変形したり失明したりするのは(末梢神経が侵されることによる)二次障害であるにもかかわらず「病気による(直接の)結果」として強烈に喧伝された。その中心は医師であり政治家であった。

…昭和に入ると政府は全患者を強制的に療養所に隔離して死に絶えるのを待つことでハンセン病問題を最終的に解決する「絶対隔離絶滅政策」に転換し、その目標を達成するために、国民を総動員する「無らい県運動」を展開した。国はハンセン病は「強力な伝染性の不治の病で、隔離が唯一の予防策」と偽りの情報を流して国民に信じ込ませたため、結果的に国民の中に残っていた病気に対する差別意識や偏見を拡大深化させてしまった。

『ふれあい福祉だより』(第20号)所収の和泉眞藏「終焉期を迎えた日本のハンセン病と感染症差別のない社会」の一文である。隔離政策の背景を端的に言い表している。

国を動かす政治家や官僚にハンセン病に関する専門知識は乏しい。医師による説明や提言を鵜呑みにしたと考えてよいだろう。<国民を守る><外国への体面>という「目的」(正義)のため、最も有効な「手段」(政策)を選択したのであって、そこには「大義」を果たす使命感こそあっても、「犠牲」となる患者のことなど顧みることはなかったであろう。

医師においては、ハンセン病根絶が「目的」であり、これ以上の蔓延を防ぐために、離島などへ「絶対隔離」という「手段」をとることが最善の方法であると考えたのである。「治療」「療養」という名目で療養所に集め、「絶対隔離」を実行する。その中心人物が光田健輔である。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。